有名な名言に
「過去と他人は変えられないけど自分と未来は変えられる」
というのがありますね。
名言って時にはその「逆も真」と感じる場合があります。
人は何かに悩んだとき、それから逃れたいから「そうだ、自分が変わればいいんだ」とすれば一見ポジティブになれて、それはそれでうまくいくときがあります。
けれど逆の人もいるような氣がするのです。
理屈ではわかるんです。
すべては自分が引き起こしていること、
自分の人生は自分がつくるもの、
すべては他人の責任ではなく自分の責任、
だから自分が変わればいい、
自分を何とか変えたい・・・と。
でも、そう頭でわかればわかる程
心が抵抗し心をその理屈や意識で抑え込もうとする場合があります。
心はこう言います。
「だって、相手の言動は腹立たしいじゃん!」
「それを押さえて何をいい子ぶっているの!」
「あなたなんか変われっこないよ」
「何を無理してるの!格好つけないで!」って。
すると、意識では絶対に変わりたい!心では何馬鹿なこと言っているの!と自分の中で対立(戦闘)状態になるんですね。
人は心に思うことと、自分でこうしたいと意識することとうまく調和したときに自分の言動が一致してそこにストレスは生じなくなります。
これが対立しているから、なにか偽善者みたいになってしまうんですね。
自分を変えようとしたときに、何か息苦しさや腹立たしさ、胸がしめつけられるような感覚を覚えたら、それはあなたの心と意識が対立しているからなのでしょう。
そんな時はいくら自分を変えようとしても、そこには無理がでます。
ではどうするか?
心も意識も解放してあげてください。
怒りや腹立たしさというあなたの心も、自分が変わりたいという意識もどちらもあってオッケーなのです。
そしてつぶやいてみましょう。
「できれば変わりたいけど、でも心はどうも違うのよね」と。
それを無理に私は絶対に変わってやる!なんて思ったら心の抵抗はますます肥大化していくと思います。
開きなおってこうつぶやきましょう。
「心って自由だからそれでいいんだ」って。
「だから自分も誰も悪くないんだ!」って。
あなたは今のあなたのままで充分素敵なのです。
怒りと悲しみのしづめ方
相手の嫌な部分がみえてどうしようもない時・・・
あなたの特別な人、親しい人、身近な人に対して
どうしても許せないとか、どうしても悲しいとか、
あなたの心の中にわきおこる怒りから抜けられない時、
相手の「意図」と「感情」を考えてみようと紹介した事があります。
それは相手の言葉や行為が
苦しみから逃れたいか
喜びを得たいかの
どちらかであるからどっちなんだろう?
と考えてみようというものです。
次にそれでも自分の怒りがしづまらない場合、相手の感情を考えてみます。
彼は、彼女はその時どんな感情だったのだろう?と考えてみようというのです。
寂しかったのか、悲しかったのか、つらかったのか、
とっても困っていたのか、どうしたらいいかわからなかったのか、
うれしかったのか、ほっとしたかったのか・・・
でもそれが役に立たない時があることを最近知りました。
カウンセラーなんて
相手のラポール(信頼関係)と共感(エンパシー)を
いっしょに感じようと一応訓練も受け、ふだん努力も実践もしていますが
それでも悩んでいる本人の感覚にせまることはとても難しい事なのです。
頭ではそのどちらかであることがわかっても
相手の感情がどんなものであるか想像できても
どうしても自分が苦しくて悲しくてしようがない時があります。
考えているだけで心臓がドキドキしたり汗が出てきたり
苦しさのループからなかなか抜けられません。
いくらカウンセラーから
もっと自分を好きになっていいんだよ
自分を否定することはないんだよ
自分を許していいんだよ、
そんなふうに言われても自分自身が嫌になってしまう程でしょう。
そんな時は、少し時間がかかるかもしれませんが
前述した相手の意図と感情をいくら考えてもラクにならないのです。
それはどうしてか?
実は自分の意図と感情を考えてないからかもしれません。
相手のそれではなくて、
自分のそれを考えてないからかもしれません。
今のこの怒りは
自分は苦しみから逃れたいのだろうか?
それともなんらかの快感を得たいのだろうか?と・・・
自分が苦しくて苦しくてしようがない時
はっと氣づきます。
当たり前かもしれませんが
苦しいのだから、自分はこの苦しみから逃れたいのです。
そしてそれが悲しくも辛くてしようがない状態なのです。
そして少しでも冷静になれたら、
矛先を相手から自分に移してみます。
先ずは自分が苦しい、悲しいというあるがままの状態を
そのまま受け容れてみます。
そして過去に、自分が似たような経験や体験
トラウマ的になっているようなことがなかったかを考えてみましょう。
もしかしてと思いついたらその時の感情が今のものと似ているか、
同じであるかを考えてみます。
それが、その時の感情と似ていたり同じであった場合は
過去のその経験体験やトラウマ的なことが
実は今回の出来事に転位、投影されている場合が多いのです。
転位、投影とは心理学用語ですが簡単に言えば、
自分の過去の経験体験が今回の出来事で無意識に思い出され、
場合によっては肥大化して相手をみてしまっている状態です。
自分はもしかして
あの時のことが許せなくて、
今回の出来事、今の相手を許せないでいるだけじゃないか・・・
そう感じることができれば
ほんのわずかですが、
相手に対する怒りが幾分やわらぐかもしれません。
そして、自分の本音を考えてみましょう。
自分は本当はどうしたいのか、どうなりたいのかを
もう一度だけ考えてみましょう。
本当の自分の気持ちに正直になってみましょう。
相手は自分にとってとても大切な人、
相手と以前のようにうまくやっていきたい
自分にとって相手はとても大事な人だからこそ
今この感情があるのではないだろうか・・・
そして自分の本音にむきあえれば
相手を愛することを考えてみましょう。
愛とは山崎房一先生の著書によれば
名詞ではなく動詞、心の中にあるわけのわからない愛など存在しないといいます。
そんな愛などまぼろしでニセモノの愛だと。
愛は自分から発せられる言葉と行為の中にしかない。
それは日常の何気ない小さな小さなことの中にしかない。
ホンモノの愛はあなたの小さな言葉と行為の中にしかない。
そしてそれは相手に見返りを求めない一方通行の愛だと。
たしかに見返りのない一方通行の愛は
もの悲しさをあなたは感じるかもしれません。
あるいは私が我慢すればいいの?と感じるかもしれません。
でももう一度自分に問いかけてみてください。
自分は相手とどうしたいのだろう。
自分は相手とどうなりたいのだろう。
相手に一切の見返りを要求せずにそのことだけを考えてみます。
自分の本当の本音にむきあえた時
相手はあなたが愛するに値する充分すぎる人ではありませんか。
ただひたすら自分に正直になってみましょう。
きっと怒りや悲しみよりも
今すべきことがみえてきます。
そして素直にその気持ちをあなたの言葉と行為で
小さな小さな一歩で踏み出してみて下さい。
責め合ったり批評したり助言したりするよりも
本当はそのままであなたも相手も素晴らしいのです。
あなたの特別な人、親しい人、身近な人に対して
どうしても許せないとか、どうしても悲しいとか、
あなたの心の中にわきおこる怒りから抜けられない時、
相手の「意図」と「感情」を考えてみようと紹介した事があります。
それは相手の言葉や行為が
苦しみから逃れたいか
喜びを得たいかの
どちらかであるからどっちなんだろう?
と考えてみようというものです。
次にそれでも自分の怒りがしづまらない場合、相手の感情を考えてみます。
彼は、彼女はその時どんな感情だったのだろう?と考えてみようというのです。
寂しかったのか、悲しかったのか、つらかったのか、
とっても困っていたのか、どうしたらいいかわからなかったのか、
うれしかったのか、ほっとしたかったのか・・・
でもそれが役に立たない時があることを最近知りました。
カウンセラーなんて
相手のラポール(信頼関係)と共感(エンパシー)を
いっしょに感じようと一応訓練も受け、ふだん努力も実践もしていますが
それでも悩んでいる本人の感覚にせまることはとても難しい事なのです。
頭ではそのどちらかであることがわかっても
相手の感情がどんなものであるか想像できても
どうしても自分が苦しくて悲しくてしようがない時があります。
考えているだけで心臓がドキドキしたり汗が出てきたり
苦しさのループからなかなか抜けられません。
いくらカウンセラーから
もっと自分を好きになっていいんだよ
自分を否定することはないんだよ
自分を許していいんだよ、
そんなふうに言われても自分自身が嫌になってしまう程でしょう。
そんな時は、少し時間がかかるかもしれませんが
前述した相手の意図と感情をいくら考えてもラクにならないのです。
それはどうしてか?
実は自分の意図と感情を考えてないからかもしれません。
相手のそれではなくて、
自分のそれを考えてないからかもしれません。
今のこの怒りは
自分は苦しみから逃れたいのだろうか?
それともなんらかの快感を得たいのだろうか?と・・・
自分が苦しくて苦しくてしようがない時
はっと氣づきます。
当たり前かもしれませんが
苦しいのだから、自分はこの苦しみから逃れたいのです。
そしてそれが悲しくも辛くてしようがない状態なのです。
そして少しでも冷静になれたら、
矛先を相手から自分に移してみます。
先ずは自分が苦しい、悲しいというあるがままの状態を
そのまま受け容れてみます。
そして過去に、自分が似たような経験や体験
トラウマ的になっているようなことがなかったかを考えてみましょう。
もしかしてと思いついたらその時の感情が今のものと似ているか、
同じであるかを考えてみます。
それが、その時の感情と似ていたり同じであった場合は
過去のその経験体験やトラウマ的なことが
実は今回の出来事に転位、投影されている場合が多いのです。
転位、投影とは心理学用語ですが簡単に言えば、
自分の過去の経験体験が今回の出来事で無意識に思い出され、
場合によっては肥大化して相手をみてしまっている状態です。
自分はもしかして
あの時のことが許せなくて、
今回の出来事、今の相手を許せないでいるだけじゃないか・・・
そう感じることができれば
ほんのわずかですが、
相手に対する怒りが幾分やわらぐかもしれません。
そして、自分の本音を考えてみましょう。
自分は本当はどうしたいのか、どうなりたいのかを
もう一度だけ考えてみましょう。
本当の自分の気持ちに正直になってみましょう。
相手は自分にとってとても大切な人、
相手と以前のようにうまくやっていきたい
自分にとって相手はとても大事な人だからこそ
今この感情があるのではないだろうか・・・
そして自分の本音にむきあえれば
相手を愛することを考えてみましょう。
愛とは山崎房一先生の著書によれば
名詞ではなく動詞、心の中にあるわけのわからない愛など存在しないといいます。
そんな愛などまぼろしでニセモノの愛だと。
愛は自分から発せられる言葉と行為の中にしかない。
それは日常の何気ない小さな小さなことの中にしかない。
ホンモノの愛はあなたの小さな言葉と行為の中にしかない。
そしてそれは相手に見返りを求めない一方通行の愛だと。
たしかに見返りのない一方通行の愛は
もの悲しさをあなたは感じるかもしれません。
あるいは私が我慢すればいいの?と感じるかもしれません。
でももう一度自分に問いかけてみてください。
自分は相手とどうしたいのだろう。
自分は相手とどうなりたいのだろう。
相手に一切の見返りを要求せずにそのことだけを考えてみます。
自分の本当の本音にむきあえた時
相手はあなたが愛するに値する充分すぎる人ではありませんか。
ただひたすら自分に正直になってみましょう。
きっと怒りや悲しみよりも
今すべきことがみえてきます。
そして素直にその気持ちをあなたの言葉と行為で
小さな小さな一歩で踏み出してみて下さい。
責め合ったり批評したり助言したりするよりも
本当はそのままであなたも相手も素晴らしいのです。
ぼやき、つぶやきの効果
ぼやき、つぶやきと言えば楽天の野村監督。
今季で終わりましたが、ご存知の通り「ぼやき」の天才ですね。
ぼやきが選手を動かす?
まんざらそれは心理学上ウソではありません。
ぼやきって、独り言のような「つぶやき」なんですが、心理学上この「つぶやき」かなりの精神安定に効果が発揮されることがわかっています。
本人にしてみれば、無意識にリラックス状態でもう一人の自分と会話しているのがこのつぶやきです。
聞こえている相手にしてみれば、実際に自分にむかっているわけではないので、そうなんだこの人はそう思っているんだと思わせるには最適です。
野村監督のぼやきは、選手に監督がどう思っているのかを無意識レベルで伝えていることになります。
いずれ、自分に対しても相手に対しても、無意識に働きかけているんです。
無意識は人間の行動の90%を支配していると言われています。
だとすれば、何をどうつぶやくかで自分や相手の言動の9割に強く働きかけるということになるんですね。
人間の言動を支配している9割にですよ・・・
考えてみればものすごい行動のパワー源だと言えます。
そしてこのつぶやき(ぼやき)
マイナスを吐き出せば自分にとってのマイナスの感情が萎縮されます。しかしプラスを吐き出せば逆にプラスの感情が増幅されるのです。
逆に吐き出さなければマイナスは増幅されプラスは萎縮する。
だからマイナスもプラスもぼやきやつぶやきで吐き出せばいいということになります。
この原理を覚えておけば、ぼやきやつぶやきを効果的に使うことができますね。だからぼやき、つぶやきも使い用!
あなたにはふだん、ぼやきやつぶやきがありますか。
また、あるとしたらどんなことをぼやいたりつぶやいたりしていますか?
コメントやメールはいつでも歓迎しています!
セラピーメニュー変更しました。
今季で終わりましたが、ご存知の通り「ぼやき」の天才ですね。
ぼやきが選手を動かす?
まんざらそれは心理学上ウソではありません。
ぼやきって、独り言のような「つぶやき」なんですが、心理学上この「つぶやき」かなりの精神安定に効果が発揮されることがわかっています。
本人にしてみれば、無意識にリラックス状態でもう一人の自分と会話しているのがこのつぶやきです。
聞こえている相手にしてみれば、実際に自分にむかっているわけではないので、そうなんだこの人はそう思っているんだと思わせるには最適です。
野村監督のぼやきは、選手に監督がどう思っているのかを無意識レベルで伝えていることになります。
いずれ、自分に対しても相手に対しても、無意識に働きかけているんです。
無意識は人間の行動の90%を支配していると言われています。
だとすれば、何をどうつぶやくかで自分や相手の言動の9割に強く働きかけるということになるんですね。
人間の言動を支配している9割にですよ・・・
考えてみればものすごい行動のパワー源だと言えます。
そしてこのつぶやき(ぼやき)
マイナスを吐き出せば自分にとってのマイナスの感情が萎縮されます。しかしプラスを吐き出せば逆にプラスの感情が増幅されるのです。
逆に吐き出さなければマイナスは増幅されプラスは萎縮する。
だからマイナスもプラスもぼやきやつぶやきで吐き出せばいいということになります。
この原理を覚えておけば、ぼやきやつぶやきを効果的に使うことができますね。だからぼやき、つぶやきも使い用!
あなたにはふだん、ぼやきやつぶやきがありますか。
また、あるとしたらどんなことをぼやいたりつぶやいたりしていますか?
コメントやメールはいつでも歓迎しています!
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良い心悪い心?強い心弱い心?
あなたは心には良い心と悪い心があると思いますか。
あるいは強い心とか弱い心があると思いますか。
自分は心が弱いからSAD(社会不安障害)とかパニックになっているとか、自分の心が邪悪だったらどうしようと恐くなって強迫性障害(OCD)になっているとか、そんなふうに考えていませんか。
心の問題で悩んでいる多くの人は僕のカウンセリングでそう訴えています。
さて、心に善悪や強弱があるとすればそれは一体何ではかっているのでしょう。
世間一般の価値観でしょうか?
親や学校の先生の価値観でしょうか?
それとも自分の価値観でしょうか?
世間一般の価値観も、親や学校の先生のそれも、自分の価値観であってもそれって現実社会でのことですよね。
そこで考えてみてください。
その現実社会の価値観って一定ですか。
親や学校の先生もいろいろな考えの人がいますよね。
ましてや1人1人の考え方や感じ方ってみんな違う。
つまりどのものさし(定規)も確かなものじゃない。
確かなものじゃない定規で、心をはかっていることじたい確かなものがでるわけがありません。
ましてやその定規はどうも現実社会のものらしい。
でも心はひとりひとりの内面にあるもの。
そう、もともとまったく次元が違うものを現実社会の不確かな定規ではかろうとすること事態に無理がある。
それなのに心が悪いとか弱いとか言っている人があまりにも多いのです。
不安症やパニックや神経症になったのは、心が弱いせいだからとか、自分の心が悪いものだったらどうしようだとか考えていませんか。
ですが、もともと心には善悪も強弱もなかったのです。
もともとないものをあるように感じること、それを雑念といいます。
そう、あなたの悩みはどうも雑念から生まれているようです。
「心には善悪や強弱はもともとないもの」だった。
理屈はともかく、そう腹をくくってみようではありませんか!!
なにか選挙みたい(笑)
どうです?
なんとなくあなたの心はすっきりしてきませんか。
どうやら心のモヤモヤを少しでも軽くするのは、気分転換のような考え方や感じ方にあるようですね。
心に善悪や強弱をはかるものさしを持ち込んだとたんに、あなたの心は弱くなる。
それははかれないものをはかろうとすること自体に無理があるからなのです。
コメントは自由に下さいね。
あるいは強い心とか弱い心があると思いますか。
自分は心が弱いからSAD(社会不安障害)とかパニックになっているとか、自分の心が邪悪だったらどうしようと恐くなって強迫性障害(OCD)になっているとか、そんなふうに考えていませんか。
心の問題で悩んでいる多くの人は僕のカウンセリングでそう訴えています。
さて、心に善悪や強弱があるとすればそれは一体何ではかっているのでしょう。
世間一般の価値観でしょうか?
親や学校の先生の価値観でしょうか?
それとも自分の価値観でしょうか?
世間一般の価値観も、親や学校の先生のそれも、自分の価値観であってもそれって現実社会でのことですよね。
そこで考えてみてください。
その現実社会の価値観って一定ですか。
親や学校の先生もいろいろな考えの人がいますよね。
ましてや1人1人の考え方や感じ方ってみんな違う。
つまりどのものさし(定規)も確かなものじゃない。
確かなものじゃない定規で、心をはかっていることじたい確かなものがでるわけがありません。
ましてやその定規はどうも現実社会のものらしい。
でも心はひとりひとりの内面にあるもの。
そう、もともとまったく次元が違うものを現実社会の不確かな定規ではかろうとすること事態に無理がある。
それなのに心が悪いとか弱いとか言っている人があまりにも多いのです。
不安症やパニックや神経症になったのは、心が弱いせいだからとか、自分の心が悪いものだったらどうしようだとか考えていませんか。
ですが、もともと心には善悪も強弱もなかったのです。
もともとないものをあるように感じること、それを雑念といいます。
そう、あなたの悩みはどうも雑念から生まれているようです。
「心には善悪や強弱はもともとないもの」だった。
理屈はともかく、そう腹をくくってみようではありませんか!!
なにか選挙みたい(笑)
どうです?
なんとなくあなたの心はすっきりしてきませんか。
どうやら心のモヤモヤを少しでも軽くするのは、気分転換のような考え方や感じ方にあるようですね。
心に善悪や強弱をはかるものさしを持ち込んだとたんに、あなたの心は弱くなる。
それははかれないものをはかろうとすること自体に無理があるからなのです。
コメントは自由に下さいね。
いい子、いい人を演じてきた人々
あなたの心の中には、いけない自分っていますか。
例えば「嘘をついてはいけません」「二重人格はいけません」「人を差別してはなりません」とか学校の先生が好きそうなセリフです。
僕はあえて言いたいな・・・
「嘘をついたって二重人格だって人を差別したって、心の中だけでやってる分には全然いいんじゃない!」って。
それってエゴイズムって言うんだよって誰かが言うと思う。
だからどうした・・・(^^)
だって、そういうエゴイズムを心の中で思っていると叱られそうだけどなんか「ワクワクしてこない」?
ワクワクってことは情熱なんだよね。
無気力無関心よりは余程いいんじゃない?!
そんな気さえしてくるよ。
「エゴイズムは生きる情熱だ!」
けどそれを学校や公の場に持ち込むと、とたんに問題が起きることも学校や職場でやってみたら簡単に分かる。
だから心の中にあるエゴ(生きる情熱)はそのままにしておいて、日常の現場では紳士・淑女でいいのさ。
あなたは腕白な紳士、女心を持った淑女でいい!
その方がずっと生きやすい。
だってエゴが本当の自分だと思うと人と比べてどうとか、優れているとか劣っているとか、強いとか弱いとか気にならなくなる。
自分は自分でいいんだってね。
他人の顔色ばかり気にする自分は本当の自分じゃないってことなのさ。
この僕の考え方、感じ方、みなさんだったらどう思うかな。
反論はもちろんあっていい。
その反論の存在を僕は認めるけど同意はしないよ。
だから反論は受け付けません(^^)
その他自由な感じ方や考え方だったら歓迎します!
みんなの為にもお聞かせください!
※コメントは管理者の承認後掲載されます。(エラーが出てもこちらには届いています)
大山への直接の相談もオッケーです。
例えば「嘘をついてはいけません」「二重人格はいけません」「人を差別してはなりません」とか学校の先生が好きそうなセリフです。
僕はあえて言いたいな・・・
「嘘をついたって二重人格だって人を差別したって、心の中だけでやってる分には全然いいんじゃない!」って。
それってエゴイズムって言うんだよって誰かが言うと思う。
だからどうした・・・(^^)
だって、そういうエゴイズムを心の中で思っていると叱られそうだけどなんか「ワクワクしてこない」?
ワクワクってことは情熱なんだよね。
無気力無関心よりは余程いいんじゃない?!
そんな気さえしてくるよ。
「エゴイズムは生きる情熱だ!」
けどそれを学校や公の場に持ち込むと、とたんに問題が起きることも学校や職場でやってみたら簡単に分かる。
だから心の中にあるエゴ(生きる情熱)はそのままにしておいて、日常の現場では紳士・淑女でいいのさ。
あなたは腕白な紳士、女心を持った淑女でいい!
その方がずっと生きやすい。
だってエゴが本当の自分だと思うと人と比べてどうとか、優れているとか劣っているとか、強いとか弱いとか気にならなくなる。
自分は自分でいいんだってね。
他人の顔色ばかり気にする自分は本当の自分じゃないってことなのさ。
この僕の考え方、感じ方、みなさんだったらどう思うかな。
反論はもちろんあっていい。
その反論の存在を僕は認めるけど同意はしないよ。
だから反論は受け付けません(^^)
その他自由な感じ方や考え方だったら歓迎します!
みんなの為にもお聞かせください!
※コメントは管理者の承認後掲載されます。(エラーが出てもこちらには届いています)
大山への直接の相談もオッケーです。
人とうまく交われないのはなぜ?
職場や日常生活で「人とうまく交われない」と悩んでいるY子さん。
Y子さんは「どうしたら人とうまくコミュニケーションができるの?」と言います。
うまく交われないというけど具体的なことって何かあった?と聞くと、しばらく考えて・・・、特にこれってないけど「他人とどう距離をとったらいいのか分からない」と言います。
Y子さんとカウンセリングを続けていて彼女が気がついたことは、他人は自分よりも優れていて素晴らしいけど、自分は何をやってもうまくできない子だと思っているし、実際そうだということでした。
そして「そんな自分が嫌い」と言います。。。
さて人と交流する場合、自分と他人、OKとNGという関係では次の四通りができあがると交流分析では言われています。
1.自分NG 他人NG
2.自分NG 他人OK
3.自分OK 他人NG
4.自分OK 他人OK
この四つの中で一番ストレスなく他人と交われるのはどれでしょう。
そう勿論4番の「自分も他人もOK」ですよね。
NGってことは自分であろうが他人であろうがそのこと事態ストレスですから。
では他人と交流する上で一番ストレスがあるのはどれでしょう。
これも勿論1番の「自分も他人もNG」ですよね。
ダメ×ダメなんだから、ダメが陪乗してしまう。
こう考えるとOK×OKがどんどんOKになっていくこともなんとなく分かるような気がしませんか。
では2番の「自分NG、他人OK」の場合はどんな想像ができますか。
他人は自分より優れている、強い、素晴らしいといつも思ってます。
それに比べて自分は劣っている、弱い、だめな人間といつも思っています。
もし貴方と交流する誰かがこう考えて自分と接しているとしたら、どうでしょう。
優越感にひたりますか?だからもっとこの人と交流したいと思いますか?
それともそんなことないよ、充分素晴らしいよと言ってあげたいですか?
どう思うかは10人いたら10通りくらいでてくるかもしれませんね。
次に3番の「自分OK、他人NG」の場合はどうでしょう。
自分はいいけど、あの人はダメと考えている場合です。
その人とストレスなくうまく交流できますか?
あるい自分は悪くない、自分は素晴らしい、悪いのはすべて廻りの人。
そんなふうに考えている人と貴方はうまく交流できますか?
Y子さんはけれどこう言います。
私はどうしても「自分NG、他人OK」になってしまうから悲しくなります。そういう自分を好きになれないのです。
会話していて、こんなことが浮かんだので彼女に質問してみました。
「わかりました。では貴女のことでなくて質問させてください」
「もし、自分はダメだけど他者とうまく交わりたいと思っている人と、自分は素晴らしいからダメな他者とは交わりたくないと思っている人、どちらが貴女は好きな人ですか?」
「・・・」
「どちらの人間をあなたは好きですか?」
「自分はダメだけどなんとか人とうまくやっていきたいって思う人です」
「そうですよね。貴女はそんな人の方が好きなんですよね。貴女はどちらのタイプの人間でしょう?」
「自分がダメだと思ってしまうことは、いくらそう思うなとかそうじゃないって言ってもそう思うのだから仕方がないこととしましょう。でも貴女は人とうまく交わりたいということには変わりないのですよね。そういう部分は、貴女は自分で自分のことが好きって今言ったことになりますよね。本当は貴女は自分のことが好きな部分もあるということだよね。。。」
それでも彼女は沈黙していました。
自分にオッケーをなかなかだせません。
それはどうしてだと思いますか?
同じようなことでお悩みの方も含めて、理屈ではなくて感情でいいです。
Y子さんの為に読者のみなさんからのコメントをお待ちしています。
※コメントはいたずら書き防止のため承認後に表示されます。
Y子さんは「どうしたら人とうまくコミュニケーションができるの?」と言います。
うまく交われないというけど具体的なことって何かあった?と聞くと、しばらく考えて・・・、特にこれってないけど「他人とどう距離をとったらいいのか分からない」と言います。
Y子さんとカウンセリングを続けていて彼女が気がついたことは、他人は自分よりも優れていて素晴らしいけど、自分は何をやってもうまくできない子だと思っているし、実際そうだということでした。
そして「そんな自分が嫌い」と言います。。。
さて人と交流する場合、自分と他人、OKとNGという関係では次の四通りができあがると交流分析では言われています。
1.自分NG 他人NG
2.自分NG 他人OK
3.自分OK 他人NG
4.自分OK 他人OK
この四つの中で一番ストレスなく他人と交われるのはどれでしょう。
そう勿論4番の「自分も他人もOK」ですよね。
NGってことは自分であろうが他人であろうがそのこと事態ストレスですから。
では他人と交流する上で一番ストレスがあるのはどれでしょう。
これも勿論1番の「自分も他人もNG」ですよね。
ダメ×ダメなんだから、ダメが陪乗してしまう。
こう考えるとOK×OKがどんどんOKになっていくこともなんとなく分かるような気がしませんか。
では2番の「自分NG、他人OK」の場合はどんな想像ができますか。
他人は自分より優れている、強い、素晴らしいといつも思ってます。
それに比べて自分は劣っている、弱い、だめな人間といつも思っています。
もし貴方と交流する誰かがこう考えて自分と接しているとしたら、どうでしょう。
優越感にひたりますか?だからもっとこの人と交流したいと思いますか?
それともそんなことないよ、充分素晴らしいよと言ってあげたいですか?
どう思うかは10人いたら10通りくらいでてくるかもしれませんね。
次に3番の「自分OK、他人NG」の場合はどうでしょう。
自分はいいけど、あの人はダメと考えている場合です。
その人とストレスなくうまく交流できますか?
あるい自分は悪くない、自分は素晴らしい、悪いのはすべて廻りの人。
そんなふうに考えている人と貴方はうまく交流できますか?
Y子さんはけれどこう言います。
私はどうしても「自分NG、他人OK」になってしまうから悲しくなります。そういう自分を好きになれないのです。
会話していて、こんなことが浮かんだので彼女に質問してみました。
「わかりました。では貴女のことでなくて質問させてください」
「もし、自分はダメだけど他者とうまく交わりたいと思っている人と、自分は素晴らしいからダメな他者とは交わりたくないと思っている人、どちらが貴女は好きな人ですか?」
「・・・」
「どちらの人間をあなたは好きですか?」
「自分はダメだけどなんとか人とうまくやっていきたいって思う人です」
「そうですよね。貴女はそんな人の方が好きなんですよね。貴女はどちらのタイプの人間でしょう?」
「自分がダメだと思ってしまうことは、いくらそう思うなとかそうじゃないって言ってもそう思うのだから仕方がないこととしましょう。でも貴女は人とうまく交わりたいということには変わりないのですよね。そういう部分は、貴女は自分で自分のことが好きって今言ったことになりますよね。本当は貴女は自分のことが好きな部分もあるということだよね。。。」
それでも彼女は沈黙していました。
自分にオッケーをなかなかだせません。
それはどうしてだと思いますか?
同じようなことでお悩みの方も含めて、理屈ではなくて感情でいいです。
Y子さんの為に読者のみなさんからのコメントをお待ちしています。
※コメントはいたずら書き防止のため承認後に表示されます。
タグ:コミュニケーション 交流
自信って何だろう?
自分に自信がなくて人とうまく交われない人もいれば、自信過剰でまわりに敬遠される人もいる。
自信って何だろうね。字だけをみれば「自ら人に言う」と書く。この場合、人とは誰か?人という以上自分もしくは他人ということになる。他人に言うのであれば「あいさつ」から始まるというのも納得できる。でも多くの場合、あいさつもしなかったり、自分に何かを言う人はもっと少ないよね。
自分らしい生き方ってどうやればできるんだろう?とか、この悩み(箱)から抜けるにはどうしたらできるんだろう?とか、そんなことを僕もいつも考えてきました。でもある日ハッと気がつきました。これって自分に対してつぶやいている(言っている)ことだって。(つまりこのつぶやき自体が自信?)
だから、自信って、先ずは自分に言うことが先で、それはそう、問いかけからしたら自分を知ることからはじまるって。そして、相手に聞いてみたりして、相手を知ることで自分と相手の違いを素直に認めればそれだけで自信になるんじゃないかなって。
だから、自信って自分と相手を比べて優劣を感じたり、強弱を感じたりすることじゃなくて、自分と相手の違いをただ知ることでそれでいいんじゃないかなって思った。違いを認めれば自分もオッケー、相手もオッケー、WIN−WINの関係になれるから相手と自分を比べて優越感や劣等感、ねたみやそねみも持たなくてすむ。
自分らしい生き方とは、自分と相手の違いをただ認めて、自分は自分でいいと感覚的に思えたときにみえてくるものなんだよね。そこには交わりたいけどうまく交われないということがなくなってくる。あなたはあなた、私は私、それでいいじゃんってことなんだよね。
人にはそれぞれ役割がある。他人の役割は他人のもの。私の役割は私だけのものなんだ。
自信って何だろうね。字だけをみれば「自ら人に言う」と書く。この場合、人とは誰か?人という以上自分もしくは他人ということになる。他人に言うのであれば「あいさつ」から始まるというのも納得できる。でも多くの場合、あいさつもしなかったり、自分に何かを言う人はもっと少ないよね。
自分らしい生き方ってどうやればできるんだろう?とか、この悩み(箱)から抜けるにはどうしたらできるんだろう?とか、そんなことを僕もいつも考えてきました。でもある日ハッと気がつきました。これって自分に対してつぶやいている(言っている)ことだって。(つまりこのつぶやき自体が自信?)
だから、自信って、先ずは自分に言うことが先で、それはそう、問いかけからしたら自分を知ることからはじまるって。そして、相手に聞いてみたりして、相手を知ることで自分と相手の違いを素直に認めればそれだけで自信になるんじゃないかなって。
だから、自信って自分と相手を比べて優劣を感じたり、強弱を感じたりすることじゃなくて、自分と相手の違いをただ知ることでそれでいいんじゃないかなって思った。違いを認めれば自分もオッケー、相手もオッケー、WIN−WINの関係になれるから相手と自分を比べて優越感や劣等感、ねたみやそねみも持たなくてすむ。
自分らしい生き方とは、自分と相手の違いをただ認めて、自分は自分でいいと感覚的に思えたときにみえてくるものなんだよね。そこには交わりたいけどうまく交われないということがなくなってくる。あなたはあなた、私は私、それでいいじゃんってことなんだよね。
人にはそれぞれ役割がある。他人の役割は他人のもの。私の役割は私だけのものなんだ。
恋愛と息苦しさ
あるカウンセラー仲間の彼が最近恋愛をしました。
彼が曰く
「神経症の方の息苦しさって恋愛している時の息苦しさに似ているんじゃないかな・・・」と・・・
息苦しさや呼吸困難な状態というのは、もちろんその人にしかわからない心の状態で、一人一人違うものです。
事実僕自身、過去に経験した感覚は言葉であえて言うとしたら「心臓にハリが突き刺さっている感覚」というようなものでした。短くて1〜2分、長くて5分程度続くものでしたが、頻繁に起きていた頃は「じっとしていれば必ず治まる」と自分につぶやくことが唯一自分を救ってくれていました。事実そうだったからです。
当時、苦しくて病院に行って何度か検査してもらいました。でもどこの病院に言ってもはっきりした診断は下せないというものでした。
だから「じっとしていれば必ず5分以内に治まる」ということが一番の自分の救いだったのと、そうなった時は動けないので廻りには「大丈夫、少ししたら治るから」といって安心してもらったことを覚えています。
さて、それはさておき「恋愛と息苦しさ」について
仲間の彼の言っているのはいたって単純なこと。
恥ずかしながらほんのちょっとの「やきもち」(たまたまの出来事)を考えていったら、「ほんとにそうなったらどうしよう」(予期不安)という気持ちになり、そこから抜けられなくなったら「いや、そうに違いない」(思い込みの強化)と感じた瞬間、普通に呼吸することすら出来なくなったというのです。
-------
たまたまの出来事
↓
予期不安
↓
思い込みの強化
↓
息苦しさ・震え
----------
「いやぁ、お恥ずかしい話なんだけど」と言いながらも彼はやはり職業柄、平静を取り戻した後にそれを笑い話にせずに、神経症の方の息苦しさを考えていたのでした。
彼にとって「たまたまの出来事」は彼女との会話。お盆で同級会が今度あるのという会話から、たまたま彼女が「同級会ってみんな帰省してちょっと日常から逃れた感覚になるから異性同志ちょっとおかしな雰囲気になる人も多いんだよね」と言ったということでした。
その時はどうということなく交わした会話でも、自分の中ではそのことが頭に残っていて、無意識にその会話だけに対して彼女に対するやきもちを焼いてしまったとのこと。
そして数日後、彼女は自分の同級会に出席しました。
そうしたら彼は思い出してしまったのです。
彼女とのその「たまたまの会話」を・・・。
すると、自分の中ではささいな事と思っていたそのことが心の中で肥大化していきます。「もし、自分の彼女がそうなったらどうしよう・・・」と。
そう考えてしまったら、自分では落ち着かなくなり、心のコントロールが効かなくなっていった自分を感じてしまった・・・
すると、それはささいな事、小さな事だし、いくらそんなことはないと打ち消そうとしても、そうすればするほど心は不思議に「でももし、そうなったらどうしよう」・・・「いや、でもやっぱりそうなるに違いない」なんて醜いと自分を思いながらも、自動的にささやいてくるのが分かったと言います。
彼はその時点でも、それが自分の思い込みだって分かっていたといいます。ですが思い込みだと自分に言い聞かせれば言い聞かす程、肥大化したものがどんどん強化されていって、しまいには呼吸も困難になってしまったというのです。
いや、まったく恥ずかしい話なんだけど・・・と、実は彼は僕にカウンセリングを依頼してきて、今回はその中でのお話を、彼の了承のもとに書いています。
カウンセラーも実は仲間同士でカウンセリングをしているものです。自分を客観視する癖みたいなものをトレーニングの意味でしているのですから、カウンセリングは病気の人が受けるものなどと限定せずにどなたであっても有効なものなのです。
さて、この話・・・
僕も彼も思ったのですが、思い込みの強化はいったんそのループに入ってしまうと体の症状は自分の意識ではどうしようもなくなるという事例の一つだねということになりました。
それと「人は小さな事、ささいな事に弱い」ということ。
自分ではわかっているのです。もともとはたわいもないことだって。
でも意識しないようにしようとか、心に抵抗しようとすればするほど、自分ではどうしようもなくなる。
いい歳をして、いろんな事がわかっているつもりの大人でも恋愛関係から生じたこの息苦しさは、心が弱っている人々の息苦しさと同じメカニズムですぐに起こり得るものなのです。
ではどうするか・・・
心に抵抗しないことかなって話になりました。
自分はささいなやきもちを焼いている。
それを少しのきっかけから息苦しさまで感じてとても苦しかった。
いい歳をして恥ずかしいと思っている。
あはは、お前はいくつになっても自分がやっぱりかわいいんだね。
そんなふうに自分につぶやけばそれだけでいいって。
やきもちを焼く自分も、
息苦しい自分も、
恥ずかしい自分も、
自分がかわいい自分も
100%完全無罪!!
そうつぶやくだけでオッケーなんですね。
いくら息苦しくなっても
「時間がたてば必ず治まる。今までもそうだった」
と自分につぶやき
「大丈夫、じっとしていればそのうち治まるから」
と相手に伝えるだけで
気持ちはなぜか穏やかになっていくんですね。
彼が曰く
「神経症の方の息苦しさって恋愛している時の息苦しさに似ているんじゃないかな・・・」と・・・
息苦しさや呼吸困難な状態というのは、もちろんその人にしかわからない心の状態で、一人一人違うものです。
事実僕自身、過去に経験した感覚は言葉であえて言うとしたら「心臓にハリが突き刺さっている感覚」というようなものでした。短くて1〜2分、長くて5分程度続くものでしたが、頻繁に起きていた頃は「じっとしていれば必ず治まる」と自分につぶやくことが唯一自分を救ってくれていました。事実そうだったからです。
当時、苦しくて病院に行って何度か検査してもらいました。でもどこの病院に言ってもはっきりした診断は下せないというものでした。
だから「じっとしていれば必ず5分以内に治まる」ということが一番の自分の救いだったのと、そうなった時は動けないので廻りには「大丈夫、少ししたら治るから」といって安心してもらったことを覚えています。
さて、それはさておき「恋愛と息苦しさ」について
仲間の彼の言っているのはいたって単純なこと。
恥ずかしながらほんのちょっとの「やきもち」(たまたまの出来事)を考えていったら、「ほんとにそうなったらどうしよう」(予期不安)という気持ちになり、そこから抜けられなくなったら「いや、そうに違いない」(思い込みの強化)と感じた瞬間、普通に呼吸することすら出来なくなったというのです。
-------
たまたまの出来事
↓
予期不安
↓
思い込みの強化
↓
息苦しさ・震え
----------
「いやぁ、お恥ずかしい話なんだけど」と言いながらも彼はやはり職業柄、平静を取り戻した後にそれを笑い話にせずに、神経症の方の息苦しさを考えていたのでした。
彼にとって「たまたまの出来事」は彼女との会話。お盆で同級会が今度あるのという会話から、たまたま彼女が「同級会ってみんな帰省してちょっと日常から逃れた感覚になるから異性同志ちょっとおかしな雰囲気になる人も多いんだよね」と言ったということでした。
その時はどうということなく交わした会話でも、自分の中ではそのことが頭に残っていて、無意識にその会話だけに対して彼女に対するやきもちを焼いてしまったとのこと。
そして数日後、彼女は自分の同級会に出席しました。
そうしたら彼は思い出してしまったのです。
彼女とのその「たまたまの会話」を・・・。
すると、自分の中ではささいな事と思っていたそのことが心の中で肥大化していきます。「もし、自分の彼女がそうなったらどうしよう・・・」と。
そう考えてしまったら、自分では落ち着かなくなり、心のコントロールが効かなくなっていった自分を感じてしまった・・・
すると、それはささいな事、小さな事だし、いくらそんなことはないと打ち消そうとしても、そうすればするほど心は不思議に「でももし、そうなったらどうしよう」・・・「いや、でもやっぱりそうなるに違いない」なんて醜いと自分を思いながらも、自動的にささやいてくるのが分かったと言います。
彼はその時点でも、それが自分の思い込みだって分かっていたといいます。ですが思い込みだと自分に言い聞かせれば言い聞かす程、肥大化したものがどんどん強化されていって、しまいには呼吸も困難になってしまったというのです。
いや、まったく恥ずかしい話なんだけど・・・と、実は彼は僕にカウンセリングを依頼してきて、今回はその中でのお話を、彼の了承のもとに書いています。
カウンセラーも実は仲間同士でカウンセリングをしているものです。自分を客観視する癖みたいなものをトレーニングの意味でしているのですから、カウンセリングは病気の人が受けるものなどと限定せずにどなたであっても有効なものなのです。
さて、この話・・・
僕も彼も思ったのですが、思い込みの強化はいったんそのループに入ってしまうと体の症状は自分の意識ではどうしようもなくなるという事例の一つだねということになりました。
それと「人は小さな事、ささいな事に弱い」ということ。
自分ではわかっているのです。もともとはたわいもないことだって。
でも意識しないようにしようとか、心に抵抗しようとすればするほど、自分ではどうしようもなくなる。
いい歳をして、いろんな事がわかっているつもりの大人でも恋愛関係から生じたこの息苦しさは、心が弱っている人々の息苦しさと同じメカニズムですぐに起こり得るものなのです。
ではどうするか・・・
心に抵抗しないことかなって話になりました。
自分はささいなやきもちを焼いている。
それを少しのきっかけから息苦しさまで感じてとても苦しかった。
いい歳をして恥ずかしいと思っている。
あはは、お前はいくつになっても自分がやっぱりかわいいんだね。
そんなふうに自分につぶやけばそれだけでいいって。
やきもちを焼く自分も、
息苦しい自分も、
恥ずかしい自分も、
自分がかわいい自分も
100%完全無罪!!
そうつぶやくだけでオッケーなんですね。
いくら息苦しくなっても
「時間がたてば必ず治まる。今までもそうだった」
と自分につぶやき
「大丈夫、じっとしていればそのうち治まるから」
と相手に伝えるだけで
気持ちはなぜか穏やかになっていくんですね。
世界遺産でセラピー合宿
大山が住んでいる場所から車で一時間圏内にはこんなに素晴らしい自然があります。
地図的には秋田県と青森県の県境、日本海側この辺です。
ここには僕の好きな風景がたくさんあります。
特に県境からみた日本海側の好きな風景を撮ってきました。

素晴らしいでしょ。
この背後の山並みは「白神山地」って言って「ぶな原生林」で世界遺産登録されている場所なので聞いたことがある人も多いかもしれません。
もう一つ、まったくローカルで有名なものがあるので紹介しますね。
それは、通称「ババヘラ・アイス」って言われているもの。
これです↓(^^)

何?これ!・・・って不思議なアイスキャンディーです。
ソフトクリームのような形状だけどソフトクリームとは全く違うアイスなんですが、ごめんなさい。僕一個買って食べた後に、食べる前に写真撮っておけばよかったと後から後悔しました。
秋田県内にしかないんですよ〜これ!
で、けっこうというかかなり美味しいです。
で、実はどうしてこちら方面に足を伸ばしたかというと・・・
皆さんといっしょにこの自然を満喫できないかなって考えたからです。
世界遺産を背後に海も川もウォーキングや散策できるし、小人数でのワークや研修、参加者同士が仲良くなれたりします。
引きこもりやSADの方、対人が苦手な方、内向的な方でも全然大丈夫、大山がちゃんとコーディネートしますから。
今、定期的にメールや電話、面談カウンセリングを行っている方はもちろん、今お悩みの方、まだ相談されてない方も含めて、もしこんな大自然の中で心と体をケアーできなかなって思ってます。
あるいは、もっと元氣になりたい!!とか、何か普段とは違う環境に身を置きながら一泊とか二泊とかで体験セミナー合宿を行いたいなって思ってます。
簡単に言うと、理屈抜きで本当の自分を体験するセミナーです。
そこでそんな会場に使いたいなぁと思って、知り合いの別荘を見学してきました。別荘といってもほんとに小さなつつしまやかな宿です。さきほどの県境のながめ(画像)を撮影した場所から車で7〜8分の場所なのですが・・・
それがこちら↓

当日は、ここの所有者のご家族がいらしていました。
こじんまりしているでしょ。
ベランダのすぐ下が海になっているんですよ〜。
こんな感じです↓

この日はとってもお天気がよくて海も透明感がありました。
きれいな海でしょ。
ここから大きな声で何かを叫びたくなってしまいます!
この日は遊びにきていた方々がいらしたのでできませんでしたが(^^;
ここのお宿の二階のお部屋はこんな感じです↓

ごめんなさい。
テーブルの上にある食事は当日僕のお昼ご飯です。
これも片付けしてから映せばよかったと後悔(^^;
それはともかく、別荘とは思えない立派な「床の間」ですね。
日本人って床の間文化なんて言われている位、
実は床の間って大切なものなんですが
ほとんど床の間って何っておっしゃられる若い人が多くなってきましたね。
このお部屋で、研修とかちょっとしたテーマを決めたワークとか交流とかをしたいと思ってます。
一階はフロアーになっていますが二階のお部屋よりキッチンを含めてやや広い感じですね。
ここで皆さんで地元の山菜とかお魚とかを自分たちで料理しながら(嫌な人はしなくてオッケー、ちゃんとお料理してくれる人いますから大丈夫)そのまま自然のエネルギー源を頂きましょう。
特別な料理ではないけれど、素朴でそのまままるかじりです(^^)
食事ってこんなにパワーがあるというのを体験できますね。
それと、参加人数は必然的に少人数になってしまいますね。
一階と二階に別れて、男女別々に宿泊したとしても最大で10人と少しくらいかななんて思います。もちろん男女比にもよりますけど・・・
もう一つ、このお宿の素晴らしい点があります。
皆さん「天然秋田杉」って聞いたことあります?
今は、もう合成材を使った天井板とかふすま戸とか多くなって
ほとんど使われなくなってしまいましたが、
このお部屋の天井と戸板がこちらです↓


これって何気なく使われていますが、とっても貴重なものなんです。
ここの所有者の方がおっしゃっていますが、木って生きているんだそうです。詳しくは書きませんが、僕が聞いてじっと木をみているとそれだけでなんかとても癒されましたね(^^)
見学してきて、ますます皆さんとセミナー合宿をしたいと思いました。秋田県って東京から遠いし(秋田新幹線で4時間)なかなか参加するのが大変という方もいらっしゃるかもしれません。
でも僕からは近いのです(^^;
いえ、嫌味で言っているのではなくて、だからこそ少人数で年に一回とか二回とかでなくて、頻度を多くできるのではないか、そう考えたのです。
それに、旅をするということ自体にも僕は絶対的に心を癒すには最適なセラピーになると思っています。
ましてや自然が豊かな場所への心と体の旅はそれだけでもエネルギーを人に注入してくれます。
そこで皆さんにちょっとご意見を聞きたいっていうか・・・
率直なところをお知らせ頂けないかなってお願いがあります。
もし、僕がこういう自然環境と宿で、記念すべき第一回目の少人数のワンツーマンでのセミナー合宿を開くのですが・・・
皆さん来たいですか??
もちろん、どのくらいのお金と時間がかかるの?と思われると思いますが、まずは理屈ぬきで来たいかどうかということだけでもお知らせくださいませんか。
その他なんでもいいので頂けたら、飛び跳ねるくらい嬉しいので
ぜひ感想や提案やご意見をください!!
コメントでもいいし、直接こちらのメールアドレスにお寄せ下さい!!
頂いた方には、お礼に現在クライエントさんでない方であってもメール相談を2往復程度無料で直接大山が必ずコメントさせて頂きます!
因みに9月の連休中に第一回を開こうかなと思ってます。
まだ決定ではないです。
9/20(日)〜9/22(火)の二泊三日です。
当然、詳細や料金は?とお感じになるかもしれませんが参加してみたいっていう方がいないと意味がないし、希望を含めていろんなコメントをとりあえずいただけたらとってもうれしいです。
この日もしかしたら来れるかも?という方には人数次第でだいたいのスケジュールと予算をお知らせします。それから参加するしないをお決め頂いてもいいし、都合で一泊だけでも結構だと思います。
では皆さんからの勝手なコメントお待ちしてます!!
心は自由自在、どんなあなたであっても100%完全オッケーなのですから(^^)
大山金昭
追伸
下の写真は名物のタコとイカの生干し。
タコはそのままでも、イカは軽くあぶって食べると絶品です。


ご意見・ご希望・参加希望の方は直接こちらのメールアドレスをクリックして題名を「合宿」として下さい。
お待ちしております!
地図的には秋田県と青森県の県境、日本海側この辺です。
ここには僕の好きな風景がたくさんあります。
特に県境からみた日本海側の好きな風景を撮ってきました。
素晴らしいでしょ。
この背後の山並みは「白神山地」って言って「ぶな原生林」で世界遺産登録されている場所なので聞いたことがある人も多いかもしれません。
もう一つ、まったくローカルで有名なものがあるので紹介しますね。
それは、通称「ババヘラ・アイス」って言われているもの。
これです↓(^^)
何?これ!・・・って不思議なアイスキャンディーです。
ソフトクリームのような形状だけどソフトクリームとは全く違うアイスなんですが、ごめんなさい。僕一個買って食べた後に、食べる前に写真撮っておけばよかったと後から後悔しました。
秋田県内にしかないんですよ〜これ!
で、けっこうというかかなり美味しいです。
で、実はどうしてこちら方面に足を伸ばしたかというと・・・
皆さんといっしょにこの自然を満喫できないかなって考えたからです。
世界遺産を背後に海も川もウォーキングや散策できるし、小人数でのワークや研修、参加者同士が仲良くなれたりします。
引きこもりやSADの方、対人が苦手な方、内向的な方でも全然大丈夫、大山がちゃんとコーディネートしますから。
今、定期的にメールや電話、面談カウンセリングを行っている方はもちろん、今お悩みの方、まだ相談されてない方も含めて、もしこんな大自然の中で心と体をケアーできなかなって思ってます。
あるいは、もっと元氣になりたい!!とか、何か普段とは違う環境に身を置きながら一泊とか二泊とかで体験セミナー合宿を行いたいなって思ってます。
簡単に言うと、理屈抜きで本当の自分を体験するセミナーです。
そこでそんな会場に使いたいなぁと思って、知り合いの別荘を見学してきました。別荘といってもほんとに小さなつつしまやかな宿です。さきほどの県境のながめ(画像)を撮影した場所から車で7〜8分の場所なのですが・・・
それがこちら↓
当日は、ここの所有者のご家族がいらしていました。
こじんまりしているでしょ。
ベランダのすぐ下が海になっているんですよ〜。
こんな感じです↓
この日はとってもお天気がよくて海も透明感がありました。
きれいな海でしょ。
ここから大きな声で何かを叫びたくなってしまいます!
この日は遊びにきていた方々がいらしたのでできませんでしたが(^^;
ここのお宿の二階のお部屋はこんな感じです↓
ごめんなさい。
テーブルの上にある食事は当日僕のお昼ご飯です。
これも片付けしてから映せばよかったと後悔(^^;
それはともかく、別荘とは思えない立派な「床の間」ですね。
日本人って床の間文化なんて言われている位、
実は床の間って大切なものなんですが
ほとんど床の間って何っておっしゃられる若い人が多くなってきましたね。
このお部屋で、研修とかちょっとしたテーマを決めたワークとか交流とかをしたいと思ってます。
一階はフロアーになっていますが二階のお部屋よりキッチンを含めてやや広い感じですね。
ここで皆さんで地元の山菜とかお魚とかを自分たちで料理しながら(嫌な人はしなくてオッケー、ちゃんとお料理してくれる人いますから大丈夫)そのまま自然のエネルギー源を頂きましょう。
特別な料理ではないけれど、素朴でそのまままるかじりです(^^)
食事ってこんなにパワーがあるというのを体験できますね。
それと、参加人数は必然的に少人数になってしまいますね。
一階と二階に別れて、男女別々に宿泊したとしても最大で10人と少しくらいかななんて思います。もちろん男女比にもよりますけど・・・
もう一つ、このお宿の素晴らしい点があります。
皆さん「天然秋田杉」って聞いたことあります?
今は、もう合成材を使った天井板とかふすま戸とか多くなって
ほとんど使われなくなってしまいましたが、
このお部屋の天井と戸板がこちらです↓
これって何気なく使われていますが、とっても貴重なものなんです。
ここの所有者の方がおっしゃっていますが、木って生きているんだそうです。詳しくは書きませんが、僕が聞いてじっと木をみているとそれだけでなんかとても癒されましたね(^^)
見学してきて、ますます皆さんとセミナー合宿をしたいと思いました。秋田県って東京から遠いし(秋田新幹線で4時間)なかなか参加するのが大変という方もいらっしゃるかもしれません。
でも僕からは近いのです(^^;
いえ、嫌味で言っているのではなくて、だからこそ少人数で年に一回とか二回とかでなくて、頻度を多くできるのではないか、そう考えたのです。
それに、旅をするということ自体にも僕は絶対的に心を癒すには最適なセラピーになると思っています。
ましてや自然が豊かな場所への心と体の旅はそれだけでもエネルギーを人に注入してくれます。
そこで皆さんにちょっとご意見を聞きたいっていうか・・・
率直なところをお知らせ頂けないかなってお願いがあります。
もし、僕がこういう自然環境と宿で、記念すべき第一回目の少人数のワンツーマンでのセミナー合宿を開くのですが・・・
皆さん来たいですか??
もちろん、どのくらいのお金と時間がかかるの?と思われると思いますが、まずは理屈ぬきで来たいかどうかということだけでもお知らせくださいませんか。
その他なんでもいいので頂けたら、飛び跳ねるくらい嬉しいので
ぜひ感想や提案やご意見をください!!
コメントでもいいし、直接こちらのメールアドレスにお寄せ下さい!!
頂いた方には、お礼に現在クライエントさんでない方であってもメール相談を2往復程度無料で直接大山が必ずコメントさせて頂きます!
因みに9月の連休中に第一回を開こうかなと思ってます。
まだ決定ではないです。
9/20(日)〜9/22(火)の二泊三日です。
当然、詳細や料金は?とお感じになるかもしれませんが参加してみたいっていう方がいないと意味がないし、希望を含めていろんなコメントをとりあえずいただけたらとってもうれしいです。
この日もしかしたら来れるかも?という方には人数次第でだいたいのスケジュールと予算をお知らせします。それから参加するしないをお決め頂いてもいいし、都合で一泊だけでも結構だと思います。
では皆さんからの勝手なコメントお待ちしてます!!
心は自由自在、どんなあなたであっても100%完全オッケーなのですから(^^)
大山金昭
追伸
下の写真は名物のタコとイカの生干し。
タコはそのままでも、イカは軽くあぶって食べると絶品です。
ご意見・ご希望・参加希望の方は直接こちらのメールアドレスをクリックして題名を「合宿」として下さい。
お待ちしております!
生きてることが嫌になったら
自分がここに居る意味がわからなくなった時
私っていったい何者?と思った時
聴いてほしい唄があります。
どんなに小さな小さな自分でも
人は小さなことに弱い
本当の愛って小さな愛がホンモノなのに
それを感じられないとき
(参照:大きな愛はまぼろし)
どんなあなたであっても人を癒してあげたはず
それをデリケートな人は忘れてしまっている
思い出してほしい
あなたは人を勇気づけてあげたことを
特別な才能や、自分には何もない
そんなことはありません
あなたはそこに居るだけで素晴らしい
人は小さなことに弱いのだから
そしてホンモノの愛は小さな言葉と行為だって
みんな知らないだけ・・・
あなたにはそこに居る理由がある
どんなあなたでも小さな小さな役割がある
そんなものは大げさでないほうがいい
大きな愛はニセモノなんだから
なぜ生きているの?
そんなふうに思うこともある
でもそれが生きてるってことなの?
そう問うだけでいい
生きていること自体に涙がでるから
生きていること自体が愛おしいのだから
それが生きているってことなの?
そう、それだけで充分あなたは素晴らしい
今そこで悩んでいるあなた
僕はこんなにもあなたが愛おしい
あなたがそこに居てほしい
小さなあなたが素晴らしいから
どうかそれに気づいて
涙は君がそこにいる証拠
それが生きているってこと
生きてくれている君に
心からありがとう
FROM 大山
追伸
この唄を聴いてほしい
魂が聞こえてきます
歌う人
作詞 KOKIA
作曲 KOKIA
唄 KOIKA
歌える事が命 伝える事が魂
私には声 それぞれ何か 授かった理由がある
人はみんな役目を持って 果たす為生まれてきたの
誰かの為にがんばる姿をさらけだして生きていくのよ
なぜ こんなにも 生きてることは 愛おしいの?
生きてるってことなの?
どんなに小さな花も誰かの心癒したでしょう
恐い事はこの存在事態を忘れ去られてしまうことなの
心の中で咲き続ける為に この生涯をかけて種を蒔くの
どんな花が咲くか いつの日になるかは わからないけど
今歌うわ 信じているから 私の声 響いて誰かに
人はみんな役目を持って 誰かの為に ここに居るの
なぜ こんなにも 愛おしい感覚?
感じながら 今 生きてるってことなの?
私っていったい何者?と思った時
聴いてほしい唄があります。
どんなに小さな小さな自分でも
人は小さなことに弱い
本当の愛って小さな愛がホンモノなのに
それを感じられないとき
(参照:大きな愛はまぼろし)
どんなあなたであっても人を癒してあげたはず
それをデリケートな人は忘れてしまっている
思い出してほしい
あなたは人を勇気づけてあげたことを
特別な才能や、自分には何もない
そんなことはありません
あなたはそこに居るだけで素晴らしい
人は小さなことに弱いのだから
そしてホンモノの愛は小さな言葉と行為だって
みんな知らないだけ・・・
あなたにはそこに居る理由がある
どんなあなたでも小さな小さな役割がある
そんなものは大げさでないほうがいい
大きな愛はニセモノなんだから
なぜ生きているの?
そんなふうに思うこともある
でもそれが生きてるってことなの?
そう問うだけでいい
生きていること自体に涙がでるから
生きていること自体が愛おしいのだから
それが生きているってことなの?
そう、それだけで充分あなたは素晴らしい
今そこで悩んでいるあなた
僕はこんなにもあなたが愛おしい
あなたがそこに居てほしい
小さなあなたが素晴らしいから
どうかそれに気づいて
涙は君がそこにいる証拠
それが生きているってこと
生きてくれている君に
心からありがとう
FROM 大山
追伸
この唄を聴いてほしい
魂が聞こえてきます
歌う人
作詞 KOKIA
作曲 KOKIA
唄 KOIKA
歌える事が命 伝える事が魂
私には声 それぞれ何か 授かった理由がある
人はみんな役目を持って 果たす為生まれてきたの
誰かの為にがんばる姿をさらけだして生きていくのよ
なぜ こんなにも 生きてることは 愛おしいの?
生きてるってことなの?
どんなに小さな花も誰かの心癒したでしょう
恐い事はこの存在事態を忘れ去られてしまうことなの
心の中で咲き続ける為に この生涯をかけて種を蒔くの
どんな花が咲くか いつの日になるかは わからないけど
今歌うわ 信じているから 私の声 響いて誰かに
人はみんな役目を持って 誰かの為に ここに居るの
なぜ こんなにも 愛おしい感覚?
感じながら 今 生きてるってことなの?
不登校・ひきこもりバンザイ!
「ひきこもったっていいじゃない!!」
最近、「不登校」や「ひきこもり」で悩んでいる女子高生からの電話やメール相談が多く受けます。この傾向は女子高生だけではありません。主婦の方は子供の幼稚園の送迎に息苦しさを感じるとか、男女を問わず会社に行けない(出社拒否)とか、ひきこもりがちになってしまっているとう相談です。
無料電話カウンセリング、無料メールカウンセリングというインターネットでの検索から私のところへアクセスする方が多いのです。
このことは、ひきこもりの方にとっては、自分の部屋から出なくても済むし、実際にリアルに面談したりしなくてもいいインターネットなら、電話やメールを使っての小さな行動ができるということに気づかせてくれたことの一つです。
子供たちの携帯サイトやインターネットの弊害が言われている中、皮肉なものですが携帯やネットはその意味では役に立っているのです。
話を聴くといろいろなケースがありますが、そこにはいくつかの心理的傾向というものがあります。
その一つには、「みんなとうまくやっていきたいのに、(たぶん)うまくやれない自分がいるからやっぱり一人がいい、でも一人は寂しいし怖い」という状態です。これは「はりねずみジレンマ」と言われているものです。
はりねずみは一人では寒いから仲間とよりそおうと努力します。でも寄り添うと体からでているハリが互いにつきささって痛いのです。痛いから結局また一人でいるという状態です。
次に、「自分は特別な存在と思っていて、少しの批判やアドバイス的なことも自分が攻撃された、非難されたとうけとってしまい必要以上に傷ついてしまった」というケースです。
これは最初のケースとは裏腹にまったくネガポジのように反転しています。最初のケースは自分に自信を持てず、いつも自分が失敗するのではないかという不安にかられています。ですが後者のケースは自分では自信たっぷりなのですが非難や悪評にとても弱いのです。時には相手に攻撃的な考え方や行為すらしてしまいますが、周囲とうまくいかず結局は落ち込んでひきこもってしまうという状態です。私はこれをナルシストジレンマと呼んでいます。
稀にもう一つのケースがあります。
はりねずみジレンマも、ナルシストジレンマも本当は対人とうまくやっていきたいという願望や潜在的な欲望あるのに、まったくそれがないケースです。彼らはもともと孤独の性質があって深く人と関わること自体を好まないのです。周囲からは感情があまりない人だとかという誤解を受けますが、本当はそうではありません。むしろ自分の中の感情に繊細すぎて他人との深い関わりに不快を感じてしまうのです。意外に自分というものをしっかり持っていて植物や花などの自然界に対しても精神的な内面も豊かです。その自分の世界を誰にも犯されたくないと必死に守っているという状態なのです。
さて、世間では「不登校」や「ひきこもり」と聞けば、最近多いよね、どうしてそんなに心が弱いのかね位にしか思われていません。しかし、彼らは心が弱いのではありません。心がとても繊細なだけなのです。心の繊細な人は、通常の人よりも素晴らしい発想ができたり、それを誰かの助けがあったり、理解してもらうことで実現できた場合には、素晴らしい行動やパフォーマンスさえみせることだってあります。
最近私が気になっているのは、ひきこもっている子供達に関して言えば、同級生や友達との対人関係をうまく築けないという場合ももちろんありますが、意外に大人たち(親や教師)の対応に傷つけられている場合が多いということです。
本人が対人関係で悩んでいた場合、本人にしてみれば、たいていはそういう状況があるとわかってくれている大人(親や教師)がいるというだけでも幾分その苦痛はやわらぐものです。
しかし、親や教師がそのうわべだけの状況に介入しようとします。いや、介入するなとは言いませんが、その対応がまったく逆効果の対応をしたり、介入したくせに場あたり的な対応ですませてしまったりして、余計子供達の対人関係をこじらせたり、あるいは本人を必要以上に追い込み、つまりは親や教師に逢いたくないがゆえにひきこもらせるというあべこべの現象が起きています。
しかも、それに当の親や教師はまったく気がつきません。くわえてひきこもった子供を、なんて今の子は心がこうも弱いのだ!で終わってしまっているのです。
子供っぽいのは親や教師の方であったりして、その子たちに精神的な虐待を与えていると言っても過言ではありません。
その子たちに本音を言える状況をつくると、学校が嫌い!、親が嫌い!、先生が嫌い!などと叫びます。でも先ほど言ったように一つのケースをのぞいて、彼らはもともと対人とうまく関わりたいというジレンマで悩んでいるのです。
こうした体験を積み重ねると、本当はいくら人との関わりを求めていても、人間に対する不安感や不信感ほうが勝ってしまったりします。不登校やひきこもりは、そういう不安や不信から逃れること、そのことの方が自分をほっとさせる行為になってしまっているのです。
しかしもっと怖いのは、逃避行動をしている自分、うまくできない自分自身を嫌悪し、心から自分を否定してしまって、そういう自分を許せなくなったり、自分の人格が壊れてしまう場合も起こります。
親や教師、大人たちはそうなる前の一歩手前が、不登校やひきこもりだとお考えになってほしいなと思います。
さて、冒頭で「ひきもったっていいじゃない!」と私は叫びました。その理由をなんとなくでも感じてもらえていますでしょうか。
彼らは心が弱く、彼らだけの責任でひきこもってしまっているのでしょうか。そうではありません。事態を悪化させたのは大いに周囲の大人たちが関与しています。彼らは悪くないのです。
もう一度言います。
彼らは弱い子でも悪い子でもありません!
意外に思われるかもしれませんが、ひきこもりが有効に働く場合が多いのです。生活に支障がでるほどのひきこもりは、先ほど言ったようにパーソナリティー障害を引き起こしますが、世間との接触を必要最低限にとどめる程度のひきこもりは、自己破綻を防ぐ役割もします。
それは、ひきこもることで自分と対話できる時間を持てるということです。世間から数歩身をひくことで、その風当たりが弱まって、本当の危機を脱するきっかけにすることができるのです。
誰だって、落ち込んだ時や凹んだ時は、一瞬一人になりたいと思うものです。それは、あなたにも身に覚えがあるはずです。
逆に落ち込む暇もないくらいあまりに忙しくて、気がついたら燃え尽きてしまってその空虚感や軽度のうつ症状に悩んでしまうというケースはよくあることです。(バーンアウト症候群)
「ひきこもり」はある意味、自分と向き合う時間を積極的に持つ練習にもつながります。たしかに一人で長くいると気分が沈んでしまいがちになりますが、私の所へ電話やメールで自分の悩みを相談できるという行為そのものが、自分と向き合えている証拠でもあるのです。
だから、私はその子たちに言います。
「君はすごいねって!」
するとその子たちは一瞬あっけにとられた反応を示す場合がほとんどです。それもカタルシス(自浄能力)が働いている証拠です。そう、人にはどんな状況になっても愛と光に満ちたコアな自分が存在する、というのが私の信念ですが、その一瞬をかいまみることができるのです。
自分自身と対話する時間を持って、自分の心の中とむきあう習慣はどんな人にとっても大人になっていくにつれて必須な能力といっても過言ではありません。
自分のパーソナリティーが形骸化していくことを防ぐことができるのは、自分との対話意外にないからです。
日記をつけたり、読書をしたり、音楽を聞いたり、動物や植物の世話をすることもいいことです。お茶やコーヒーを楽しんでも構いません。ポイントは一人で自分のためにすごす時間を持つことなのです。

その少しの手助けを私はするだけです。あるがままの君で素晴らしいと話を聴いてあげることだけなのです。そうした時間を楽しむことが出来れば、すでにその子は回復にむかっています。
もちろんそれだけですべてが解決されるわけではありません。しかし、そのことが社会生活を楽しく自分らしく生きるきっかけになることは間違いないのです。
●廻りの大人たちが子供達を悪くしている場合がある
●不登校やひきこもりの子はけして弱い子でも悪い子でもない
●ひきこもりバンザイ!君は素晴らしい。
大山メンタルオフィス
最近、「不登校」や「ひきこもり」で悩んでいる女子高生からの電話やメール相談が多く受けます。この傾向は女子高生だけではありません。主婦の方は子供の幼稚園の送迎に息苦しさを感じるとか、男女を問わず会社に行けない(出社拒否)とか、ひきこもりがちになってしまっているとう相談です。
無料電話カウンセリング、無料メールカウンセリングというインターネットでの検索から私のところへアクセスする方が多いのです。
このことは、ひきこもりの方にとっては、自分の部屋から出なくても済むし、実際にリアルに面談したりしなくてもいいインターネットなら、電話やメールを使っての小さな行動ができるということに気づかせてくれたことの一つです。
子供たちの携帯サイトやインターネットの弊害が言われている中、皮肉なものですが携帯やネットはその意味では役に立っているのです。
話を聴くといろいろなケースがありますが、そこにはいくつかの心理的傾向というものがあります。
その一つには、「みんなとうまくやっていきたいのに、(たぶん)うまくやれない自分がいるからやっぱり一人がいい、でも一人は寂しいし怖い」という状態です。これは「はりねずみジレンマ」と言われているものです。
はりねずみは一人では寒いから仲間とよりそおうと努力します。でも寄り添うと体からでているハリが互いにつきささって痛いのです。痛いから結局また一人でいるという状態です。
次に、「自分は特別な存在と思っていて、少しの批判やアドバイス的なことも自分が攻撃された、非難されたとうけとってしまい必要以上に傷ついてしまった」というケースです。
これは最初のケースとは裏腹にまったくネガポジのように反転しています。最初のケースは自分に自信を持てず、いつも自分が失敗するのではないかという不安にかられています。ですが後者のケースは自分では自信たっぷりなのですが非難や悪評にとても弱いのです。時には相手に攻撃的な考え方や行為すらしてしまいますが、周囲とうまくいかず結局は落ち込んでひきこもってしまうという状態です。私はこれをナルシストジレンマと呼んでいます。
稀にもう一つのケースがあります。
はりねずみジレンマも、ナルシストジレンマも本当は対人とうまくやっていきたいという願望や潜在的な欲望あるのに、まったくそれがないケースです。彼らはもともと孤独の性質があって深く人と関わること自体を好まないのです。周囲からは感情があまりない人だとかという誤解を受けますが、本当はそうではありません。むしろ自分の中の感情に繊細すぎて他人との深い関わりに不快を感じてしまうのです。意外に自分というものをしっかり持っていて植物や花などの自然界に対しても精神的な内面も豊かです。その自分の世界を誰にも犯されたくないと必死に守っているという状態なのです。
さて、世間では「不登校」や「ひきこもり」と聞けば、最近多いよね、どうしてそんなに心が弱いのかね位にしか思われていません。しかし、彼らは心が弱いのではありません。心がとても繊細なだけなのです。心の繊細な人は、通常の人よりも素晴らしい発想ができたり、それを誰かの助けがあったり、理解してもらうことで実現できた場合には、素晴らしい行動やパフォーマンスさえみせることだってあります。
最近私が気になっているのは、ひきこもっている子供達に関して言えば、同級生や友達との対人関係をうまく築けないという場合ももちろんありますが、意外に大人たち(親や教師)の対応に傷つけられている場合が多いということです。
本人が対人関係で悩んでいた場合、本人にしてみれば、たいていはそういう状況があるとわかってくれている大人(親や教師)がいるというだけでも幾分その苦痛はやわらぐものです。
しかし、親や教師がそのうわべだけの状況に介入しようとします。いや、介入するなとは言いませんが、その対応がまったく逆効果の対応をしたり、介入したくせに場あたり的な対応ですませてしまったりして、余計子供達の対人関係をこじらせたり、あるいは本人を必要以上に追い込み、つまりは親や教師に逢いたくないがゆえにひきこもらせるというあべこべの現象が起きています。
しかも、それに当の親や教師はまったく気がつきません。くわえてひきこもった子供を、なんて今の子は心がこうも弱いのだ!で終わってしまっているのです。
子供っぽいのは親や教師の方であったりして、その子たちに精神的な虐待を与えていると言っても過言ではありません。
その子たちに本音を言える状況をつくると、学校が嫌い!、親が嫌い!、先生が嫌い!などと叫びます。でも先ほど言ったように一つのケースをのぞいて、彼らはもともと対人とうまく関わりたいというジレンマで悩んでいるのです。
こうした体験を積み重ねると、本当はいくら人との関わりを求めていても、人間に対する不安感や不信感ほうが勝ってしまったりします。不登校やひきこもりは、そういう不安や不信から逃れること、そのことの方が自分をほっとさせる行為になってしまっているのです。
しかしもっと怖いのは、逃避行動をしている自分、うまくできない自分自身を嫌悪し、心から自分を否定してしまって、そういう自分を許せなくなったり、自分の人格が壊れてしまう場合も起こります。
親や教師、大人たちはそうなる前の一歩手前が、不登校やひきこもりだとお考えになってほしいなと思います。
さて、冒頭で「ひきもったっていいじゃない!」と私は叫びました。その理由をなんとなくでも感じてもらえていますでしょうか。
彼らは心が弱く、彼らだけの責任でひきこもってしまっているのでしょうか。そうではありません。事態を悪化させたのは大いに周囲の大人たちが関与しています。彼らは悪くないのです。
もう一度言います。
彼らは弱い子でも悪い子でもありません!
意外に思われるかもしれませんが、ひきこもりが有効に働く場合が多いのです。生活に支障がでるほどのひきこもりは、先ほど言ったようにパーソナリティー障害を引き起こしますが、世間との接触を必要最低限にとどめる程度のひきこもりは、自己破綻を防ぐ役割もします。
それは、ひきこもることで自分と対話できる時間を持てるということです。世間から数歩身をひくことで、その風当たりが弱まって、本当の危機を脱するきっかけにすることができるのです。
誰だって、落ち込んだ時や凹んだ時は、一瞬一人になりたいと思うものです。それは、あなたにも身に覚えがあるはずです。
逆に落ち込む暇もないくらいあまりに忙しくて、気がついたら燃え尽きてしまってその空虚感や軽度のうつ症状に悩んでしまうというケースはよくあることです。(バーンアウト症候群)
「ひきこもり」はある意味、自分と向き合う時間を積極的に持つ練習にもつながります。たしかに一人で長くいると気分が沈んでしまいがちになりますが、私の所へ電話やメールで自分の悩みを相談できるという行為そのものが、自分と向き合えている証拠でもあるのです。
だから、私はその子たちに言います。
「君はすごいねって!」
するとその子たちは一瞬あっけにとられた反応を示す場合がほとんどです。それもカタルシス(自浄能力)が働いている証拠です。そう、人にはどんな状況になっても愛と光に満ちたコアな自分が存在する、というのが私の信念ですが、その一瞬をかいまみることができるのです。
自分自身と対話する時間を持って、自分の心の中とむきあう習慣はどんな人にとっても大人になっていくにつれて必須な能力といっても過言ではありません。
自分のパーソナリティーが形骸化していくことを防ぐことができるのは、自分との対話意外にないからです。
日記をつけたり、読書をしたり、音楽を聞いたり、動物や植物の世話をすることもいいことです。お茶やコーヒーを楽しんでも構いません。ポイントは一人で自分のためにすごす時間を持つことなのです。
その少しの手助けを私はするだけです。あるがままの君で素晴らしいと話を聴いてあげることだけなのです。そうした時間を楽しむことが出来れば、すでにその子は回復にむかっています。
もちろんそれだけですべてが解決されるわけではありません。しかし、そのことが社会生活を楽しく自分らしく生きるきっかけになることは間違いないのです。
●廻りの大人たちが子供達を悪くしている場合がある
●不登校やひきこもりの子はけして弱い子でも悪い子でもない
●ひきこもりバンザイ!君は素晴らしい。
大山メンタルオフィス
大きな愛はまぼろしです
愛と不安や恐怖、ストレスとは関係がないと思っている人が意外に多くいます。
結論から先に言えば、愛と落ち込みや凹みには密接な関係があります。簡単に言うと、失恋すれば人は落ち込みます。失恋して凹まない人などみたことがありません。失恋は愛する対象の喪失です。
あなたが今何歳であっても、ここで少し自分の失恋経験を考えてみましょう。
失恋は愛する対象の喪失だと言いました。失恋と言うからには相手を失った悲しみです。自分がいくら好きでも相手からノーという拒否をもらうことになります。この場合、相手から愛をもらえないという悲しみですが、実はもう一つあるのです。
それは、自分が愛する対象がなくなったという悲しみです。
あなたは相手から与えられない愛で悲しいのでしょうか。それとも相手に愛を与えることができなくなったという意味で悲しいのでしょうか。もちろんどちらの気持ちもあるでしょうが、比較の問題でどちらが悲しいでしょう。
人はどんな人でも愛を求めて生きています。
多くの場合、失恋しても時間がたてばまた別の人を愛せるものです。ずっとその失恋をひきずって恋愛をしないでいる人はほとんどいません。これを「愛は永遠なもの」と言ってしまえば、他の人を以後一切愛してはいけませんということになります。もしそれを自分でやってしまったら、あなたはもう生きていけない程に苦しいでしょう。
お気づきでしょうか。
本当は自分が誰かを愛せない方が愛されないよりも余程つらいのです。
そうです。愛の対象の本質は自分だったのです。心の矢印は一見、他人からもらう愛にみえますが、本当の矢印は自分自身にむかっていたということです。
永遠の愛だとか、人類の愛だとか、大きな愛もたしかに声高に言われています。しかし、そんな愛はまぼろしにしか過ぎません。もともと個人の愛の世界ではそれを体感できる人がいないからです。
それよりも、もっと現実的で小さな愛はすぐに体感できます。例えば毎日会う旦那さんや奥さんと、朝でも昼でも夜でも何気ない「あいさつ」をする、泣く子に対してあやしてあげている自分がいる、子供をしかったり心配したりしている自分がいるとかです。あるいは自分が風邪をひいたときに旦那さんや奥さんから、「大丈夫?」と一言声をかけてもらう、食べられない時に簡単な何かをつくってくれたりする、悩んでいるときなど解決策はなかなかみつからないけれど、じっと手をにぎってくれたり抱きしめてくれたりする・・・
永遠の愛だとか、大きな愛を信じていると、こんな小さな小さな愛の言葉や行為が愛だとは感じることができなくなってしまいます。もともとそんなものはなかったのです。それなのに、なにかそんな高貴にみえる愛を期待したがために、目の前のホンモノの愛がわからなくなってしまうのです。
永遠の愛、大きな愛などはもともとなかったものと腹をくくってみると、逆に小さな愛に痛いほどありがたさを感じる自分を体験できます。
小さな愛とは、小さな言葉、小さな行為の積み重ねです。
その小さな愛こそがホンモノの愛だったのです。
ホンモノの愛を体感できると、人は愛の対象を呼び戻すことができます。一度失った愛の対象は実は自分だったという話をしました。しかし小さなホンモノの愛は、自分という愛の対象を取り戻すことになります。しかも小さな愛は小さな言葉と小さな行為なのですから、しようと思えばすぐに他人にもそれを与えることができます。
そう、小さな愛とは与えられる愛ではなく、与える愛だったのです。
与えるだけの愛とは、なにかもの悲しくも感じるかもしれません。人は愛されたいからです。産まれてまもない赤ちゃんは、お母さんから無条件の愛を獲得できます。当たり前ですが、一人では生きていけないからです。だっこされ、母乳をあたえられ、お母さんの肌や鼓動は赤ちゃんに安心感を覚えさせます。これが私達がいくつになっても、与えられる無条件の大きな愛があると信じてしまう原因です。しかし、ホンモノの愛は赤ちゃんをだっこできているという母親の内側にあるものがホンモノの愛なのです。やがて、赤ちゃんは成長し、少年少女期をへてお母さんから分離していきます。
この分離がうまくできて、お母さんも赤ちゃんも自律したお互いの人格を形成していくのですが、これが永遠の愛とか大きな愛とかというまぼろしを信じたがために、うまく分離できないことも生じてきてしまいます。これを分離不安とか見捨てられ不安とかと言います。これに関しては別項で書いてみたいと思います。
いずれにしても、大きな愛、与えられる愛はまぼろしだったということになります。ホンモノの愛は小さな愛、言葉と行為による愛だったということです。そしてその小さな愛は一方通行のみの愛だったのです。
そんなふうにホンモノの愛がみえてきたら、自分のために一方通行でも構わないから先ずは形から入ってみることができます。小さな言葉や小さな行為は大きなまやかしの愛と違ってすぐにできるからです。明日からと言わず、今すぐできることなのです。
職場の上司や同僚、配偶者や家族の面々、お友達にでもそれはできます。もちろん一方通行なのですからもの悲しさはあるかもしれません。しかしその人たち(たとえ毎日会う人、会わない人、すでにもう逢えない人でも)の顔をよくよく思い出しては心の中で静かに少しじっとみつめてあげてみてください。
小さな言葉、小さな行為を与えるに十分な人たちのような気がしてきませんでしょうか。それはその人たちの為にも勿論なりますが、本当は自分という愛の対象を取り戻すために一役も二役もかってくれるものになるでしょう。
●大きな愛、永遠の愛とはまぼろしの愛だった。
●愛を感じられなくなったら、小さな愛を実行してみよう。
●小さな愛とは小さな言葉、小さな行為であり一方通行の愛です。
結論から先に言えば、愛と落ち込みや凹みには密接な関係があります。簡単に言うと、失恋すれば人は落ち込みます。失恋して凹まない人などみたことがありません。失恋は愛する対象の喪失です。
あなたが今何歳であっても、ここで少し自分の失恋経験を考えてみましょう。
失恋は愛する対象の喪失だと言いました。失恋と言うからには相手を失った悲しみです。自分がいくら好きでも相手からノーという拒否をもらうことになります。この場合、相手から愛をもらえないという悲しみですが、実はもう一つあるのです。
それは、自分が愛する対象がなくなったという悲しみです。
あなたは相手から与えられない愛で悲しいのでしょうか。それとも相手に愛を与えることができなくなったという意味で悲しいのでしょうか。もちろんどちらの気持ちもあるでしょうが、比較の問題でどちらが悲しいでしょう。
人はどんな人でも愛を求めて生きています。
多くの場合、失恋しても時間がたてばまた別の人を愛せるものです。ずっとその失恋をひきずって恋愛をしないでいる人はほとんどいません。これを「愛は永遠なもの」と言ってしまえば、他の人を以後一切愛してはいけませんということになります。もしそれを自分でやってしまったら、あなたはもう生きていけない程に苦しいでしょう。
お気づきでしょうか。
本当は自分が誰かを愛せない方が愛されないよりも余程つらいのです。
そうです。愛の対象の本質は自分だったのです。心の矢印は一見、他人からもらう愛にみえますが、本当の矢印は自分自身にむかっていたということです。
永遠の愛だとか、人類の愛だとか、大きな愛もたしかに声高に言われています。しかし、そんな愛はまぼろしにしか過ぎません。もともと個人の愛の世界ではそれを体感できる人がいないからです。
それよりも、もっと現実的で小さな愛はすぐに体感できます。例えば毎日会う旦那さんや奥さんと、朝でも昼でも夜でも何気ない「あいさつ」をする、泣く子に対してあやしてあげている自分がいる、子供をしかったり心配したりしている自分がいるとかです。あるいは自分が風邪をひいたときに旦那さんや奥さんから、「大丈夫?」と一言声をかけてもらう、食べられない時に簡単な何かをつくってくれたりする、悩んでいるときなど解決策はなかなかみつからないけれど、じっと手をにぎってくれたり抱きしめてくれたりする・・・
永遠の愛だとか、大きな愛を信じていると、こんな小さな小さな愛の言葉や行為が愛だとは感じることができなくなってしまいます。もともとそんなものはなかったのです。それなのに、なにかそんな高貴にみえる愛を期待したがために、目の前のホンモノの愛がわからなくなってしまうのです。
永遠の愛、大きな愛などはもともとなかったものと腹をくくってみると、逆に小さな愛に痛いほどありがたさを感じる自分を体験できます。
小さな愛とは、小さな言葉、小さな行為の積み重ねです。
その小さな愛こそがホンモノの愛だったのです。
ホンモノの愛を体感できると、人は愛の対象を呼び戻すことができます。一度失った愛の対象は実は自分だったという話をしました。しかし小さなホンモノの愛は、自分という愛の対象を取り戻すことになります。しかも小さな愛は小さな言葉と小さな行為なのですから、しようと思えばすぐに他人にもそれを与えることができます。
そう、小さな愛とは与えられる愛ではなく、与える愛だったのです。
与えるだけの愛とは、なにかもの悲しくも感じるかもしれません。人は愛されたいからです。産まれてまもない赤ちゃんは、お母さんから無条件の愛を獲得できます。当たり前ですが、一人では生きていけないからです。だっこされ、母乳をあたえられ、お母さんの肌や鼓動は赤ちゃんに安心感を覚えさせます。これが私達がいくつになっても、与えられる無条件の大きな愛があると信じてしまう原因です。しかし、ホンモノの愛は赤ちゃんをだっこできているという母親の内側にあるものがホンモノの愛なのです。やがて、赤ちゃんは成長し、少年少女期をへてお母さんから分離していきます。
この分離がうまくできて、お母さんも赤ちゃんも自律したお互いの人格を形成していくのですが、これが永遠の愛とか大きな愛とかというまぼろしを信じたがために、うまく分離できないことも生じてきてしまいます。これを分離不安とか見捨てられ不安とかと言います。これに関しては別項で書いてみたいと思います。
いずれにしても、大きな愛、与えられる愛はまぼろしだったということになります。ホンモノの愛は小さな愛、言葉と行為による愛だったということです。そしてその小さな愛は一方通行のみの愛だったのです。
そんなふうにホンモノの愛がみえてきたら、自分のために一方通行でも構わないから先ずは形から入ってみることができます。小さな言葉や小さな行為は大きなまやかしの愛と違ってすぐにできるからです。明日からと言わず、今すぐできることなのです。
職場の上司や同僚、配偶者や家族の面々、お友達にでもそれはできます。もちろん一方通行なのですからもの悲しさはあるかもしれません。しかしその人たち(たとえ毎日会う人、会わない人、すでにもう逢えない人でも)の顔をよくよく思い出しては心の中で静かに少しじっとみつめてあげてみてください。
小さな言葉、小さな行為を与えるに十分な人たちのような気がしてきませんでしょうか。それはその人たちの為にも勿論なりますが、本当は自分という愛の対象を取り戻すために一役も二役もかってくれるものになるでしょう。
●大きな愛、永遠の愛とはまぼろしの愛だった。
●愛を感じられなくなったら、小さな愛を実行してみよう。
●小さな愛とは小さな言葉、小さな行為であり一方通行の愛です。
タグ:愛
心を鍛えようとしないこと
心が弱っている人が家族や自分の組織にいる場合、多くの人はその人に向かって気持ちが弱い、とか心が弱いと言います。
では、心を強くするにはどうしたらいいでしょう?とその人に聞くと「心を鍛えなければならない」と言います。
さらに、では心を鍛えるにはどうしたらいいでしょう?と聞くと、心を強くもたなければならないと言います。
これではなにか行ったり来たりで具体的には何の解決にもなりません。それどころか、そもそも心は鍛えようとすればするほど、心はもろくなってしまうものなのです。
人の心は強く持たなければとか、鍛えなければといった瞬間に弱くなるものです。
それはどうしてか?
そう言った瞬間にその人の心のあり方を否定していることになるからです。心の中で何を思おうが思うまいが、心の中は自由です。
あなたは今まで生きてきて、心の中にネガティブなことを描いたことは一度もなかったでしょうか。憎い、悔しい、ねたみ、そねみ、情けないなど悲しみや怒りなどの感情がわいたことがありませんでしたでしょうか。
そして、そう思ったことで自分が裁かれるべき人間だと思いましたでしょうか。
心の自己否定は次のことを生んでしまいます。
1. 他人にどう思われているだろうという不安や恐怖
2.自分はだめな人間、悪い人間だという罪の意識
ここで考えてみましょう。
心のあり方が不十分だからといってその人を批判する権利がだれかに認められているでしょうか。また、心の中でネガティブなことを考えているから、その人を罰するという法律は世界中どこかの国の法律であるでしょうか。ないですよね。
だから、人の心の中はたとえどんな状態であっても何人も、侵入してはならないものなのです。
心は強くしようとしても、鍛えようとしても強くはなりません。
ではどうしたら、心はタフになるのでしょうか。
ご安心ください。そのままでいいのです。
自己否定はけして心を強くしないのですから、そのままを否定しないことが心をタフにするということになります。
「柳に風」です。どんな強風が吹いても自分の心がそのままでいいというやわらかさがあれば、その枝はなびいているだけでけして折れはしません。しかし、その強風に立ち向かおうと心を頑なにすればするほど、その強風に耐え切れずポキっと心の枝が折れてしまいます。
私が心は「闘わせても逃げてもいけない」というのはこういう状態のことを言っています。そのまま、あるがままにそこに居続ければ強風はやがてやみます。強風がやまずに続くことはありません。やがてやむのが自然の摂理です。それまで闘わず、逃げずに心をあるがままにおいておけばいいのです。
しまっておくことでもありません。閉じ込めておくことでもありません。ただあるがままそこにいればいいのです。
たいていは、いけないことだからとか、さわりたくないからとかでしまってしまったり、檻の中に閉じ込めようとしたりします。そうではなくて、ただそこに置いておくだけでよかったのです。
つまり、あるがままでいることが心が最強でいられることになります。
あるがままとは大事に大事にそこにおいておくだけです。どんな心も宝物のように大事にしておくだけです。
おいておくとは、けして現実社会の中にそれを引き出すことでもありません。なぜなら、現実社会の中に引き出した瞬間に、生き辛くなるからです。現実社会とはある意味、心では意識の世界です。意識と心を戦わせることになります。
うそをついてはいけませんとか、行いを正しくしなければいけませんとか、人とうまくやらなければなりませんとか、そんな常識は現実社会の中で大切なもののひとつではありますが、心の中では違っていていいのです。そう、二重人格のようなものです。表と心は二重人格でいいのです。そうしないと、心はけして強くならないどころか、強風にあおられてぽっきり折れてしまいます。
もし、あなたはあなたの大事な人が、心が強くありたいと思ったら、心の中のネガティブな部分を否定しないことです。むしろ、それを大事に大事に扱ってほしいものだと思います。そしてどんな心の中のものもあるがままにそこに置いておいてほしいのです。
もし、それが表の世界(現実社会)に出てきたら、心の中に置いておくために追い返してあげてください。ここはあなたの来る場所ではなくて、しゃんと心の中にそのままでいないさいねって。
そのあるがままの心の姿を変えようとしてもいけません。変えようとすれば心は抵抗します。心が変わるとは、あなたの意識とはまったく無関係なところで生じます。だから変えようとしないのです。変わるときは変えようとしなくたって変わります。あなたの心の中にあるネガティブなものはその意味で不可侵領域です。あなたも他人も誰もさわることなど出来ないものなのです。
●心は強くしよう、鍛えようとしても強くはなりません。
●そのままに心に置いておくことが一番最強なのです。
では、心を強くするにはどうしたらいいでしょう?とその人に聞くと「心を鍛えなければならない」と言います。
さらに、では心を鍛えるにはどうしたらいいでしょう?と聞くと、心を強くもたなければならないと言います。
これではなにか行ったり来たりで具体的には何の解決にもなりません。それどころか、そもそも心は鍛えようとすればするほど、心はもろくなってしまうものなのです。
人の心は強く持たなければとか、鍛えなければといった瞬間に弱くなるものです。
それはどうしてか?
そう言った瞬間にその人の心のあり方を否定していることになるからです。心の中で何を思おうが思うまいが、心の中は自由です。
あなたは今まで生きてきて、心の中にネガティブなことを描いたことは一度もなかったでしょうか。憎い、悔しい、ねたみ、そねみ、情けないなど悲しみや怒りなどの感情がわいたことがありませんでしたでしょうか。
そして、そう思ったことで自分が裁かれるべき人間だと思いましたでしょうか。
心の自己否定は次のことを生んでしまいます。
1. 他人にどう思われているだろうという不安や恐怖
2.自分はだめな人間、悪い人間だという罪の意識
ここで考えてみましょう。
心のあり方が不十分だからといってその人を批判する権利がだれかに認められているでしょうか。また、心の中でネガティブなことを考えているから、その人を罰するという法律は世界中どこかの国の法律であるでしょうか。ないですよね。
だから、人の心の中はたとえどんな状態であっても何人も、侵入してはならないものなのです。
心は強くしようとしても、鍛えようとしても強くはなりません。
ではどうしたら、心はタフになるのでしょうか。
ご安心ください。そのままでいいのです。
自己否定はけして心を強くしないのですから、そのままを否定しないことが心をタフにするということになります。
「柳に風」です。どんな強風が吹いても自分の心がそのままでいいというやわらかさがあれば、その枝はなびいているだけでけして折れはしません。しかし、その強風に立ち向かおうと心を頑なにすればするほど、その強風に耐え切れずポキっと心の枝が折れてしまいます。
私が心は「闘わせても逃げてもいけない」というのはこういう状態のことを言っています。そのまま、あるがままにそこに居続ければ強風はやがてやみます。強風がやまずに続くことはありません。やがてやむのが自然の摂理です。それまで闘わず、逃げずに心をあるがままにおいておけばいいのです。
しまっておくことでもありません。閉じ込めておくことでもありません。ただあるがままそこにいればいいのです。
たいていは、いけないことだからとか、さわりたくないからとかでしまってしまったり、檻の中に閉じ込めようとしたりします。そうではなくて、ただそこに置いておくだけでよかったのです。
つまり、あるがままでいることが心が最強でいられることになります。
あるがままとは大事に大事にそこにおいておくだけです。どんな心も宝物のように大事にしておくだけです。
おいておくとは、けして現実社会の中にそれを引き出すことでもありません。なぜなら、現実社会の中に引き出した瞬間に、生き辛くなるからです。現実社会とはある意味、心では意識の世界です。意識と心を戦わせることになります。
うそをついてはいけませんとか、行いを正しくしなければいけませんとか、人とうまくやらなければなりませんとか、そんな常識は現実社会の中で大切なもののひとつではありますが、心の中では違っていていいのです。そう、二重人格のようなものです。表と心は二重人格でいいのです。そうしないと、心はけして強くならないどころか、強風にあおられてぽっきり折れてしまいます。
もし、あなたはあなたの大事な人が、心が強くありたいと思ったら、心の中のネガティブな部分を否定しないことです。むしろ、それを大事に大事に扱ってほしいものだと思います。そしてどんな心の中のものもあるがままにそこに置いておいてほしいのです。
もし、それが表の世界(現実社会)に出てきたら、心の中に置いておくために追い返してあげてください。ここはあなたの来る場所ではなくて、しゃんと心の中にそのままでいないさいねって。
そのあるがままの心の姿を変えようとしてもいけません。変えようとすれば心は抵抗します。心が変わるとは、あなたの意識とはまったく無関係なところで生じます。だから変えようとしないのです。変わるときは変えようとしなくたって変わります。あなたの心の中にあるネガティブなものはその意味で不可侵領域です。あなたも他人も誰もさわることなど出来ないものなのです。
●心は強くしよう、鍛えようとしても強くはなりません。
●そのままに心に置いておくことが一番最強なのです。
タグ:心 メンタル
姉妹・兄弟比較
「どうしてあなたの親は姉妹・兄弟比較をしたのか・・・」
あなたには姉妹・兄弟はいらっしゃいますか。
そしてあなたのお母さん、お父さんはあなた達兄弟姉妹にどんなふうに接してきましたか?
兄弟や姉妹比較に今は悩んでいなくても、不安症や神経症で悩んでいる方々にはその記憶が強烈に残っている人が少なくありません。
兄弟や姉妹と比較されて今まで褒められた事が一度もない・・・
その逆でいつも比較の中で自分は褒められっぱなしだった・・・
いつも親は自分を見離していた・・・
いつも親がなんでもしてくれた・・・
そのどちらであっても、そうされる子供にしてみたら
「自分がない」状態、本当の自分がなんなのか分からなくなってしまいます。
「自分はどこから来てどこへ行くの?」
「何かひとつでいい、誰か教えて!」
こんな歌詞の唄が子供番組の主題歌になる時代は何を意味しているのでしょうか。
ひとつには親が自分の親からそうされたという経験のある場合が多くあります。無意識に自分がされたことと同じことを子供にしている場合です。
親は子供の頃、自分はどこから来てどこへ行くの?
愛されているのか、見離されているのか、わからなくなったはずです。
そうすると、自分が何者かわからなくなってしまいます。
自分がわからない状態で、母親や父親になったらどうなるでしょう。
無意識に子供が自分からいつか離れていくことに不安を感じるようになります。
自分がべったりすることへの恐怖もあれば、自分が子供をつきはなす恐怖もあります。どちらが本当の自分なのかわかりません。
自分が見捨てられているのではないかという子供の頃の不安と、子供が自分から離れていくのではないかという不安が、ここにきて統合できない状態になってしまいます。
その結果、子供の兄弟・姉妹比較、つまりまったく違う接し方をすることでしかその不安を埋めることができないようになってしまいます。
あるいは兄弟、姉妹比較にあらわれず、一人の子供に両面を交互にだしていくことで表出する場合もあります。自分の中に棲み付く不安が統合されないのですから、どちらで接したらいいかわからないのです。
それを断ち切ることができるとすれば・・・
どうしたらいいのか・・・
兄弟、姉妹というのは血縁からしたら一番近い存在。
それなのに心も体もまったく違う性質を持ち合わせて生まれてきます。
世界中誰ひとり同じ人はいないからです。
兄弟、姉妹であってもまったく違って当たり前なのです。
人はときに当たり前のことを、当たり前すぎて忘れてしまいがちです。
けれど当たり前すぎるそのことを、自分に、そして子供に伝えることがこれを断ち切るスタートラインになるように思います。
子供は親にとって無条件の愛の対象です。
愛し、愛されることになんの資格も条件も必要はありません。
ある姉妹喧嘩のたえない娘は自分たちの母親を空に例えました。
それは母親が一人は太陽、一人は月だと例えたからです。
兄弟、姉妹は生まれた時から違って当たり前。
どちらが優秀でどちらがそうでないかとか、
どうちが正しいとかどちらが間違っているとか、
そういう雑念はもともと何ひとつ無いんだということ・・・
この当たり前のことを子供に伝え続けてほしい。
あまりにも傷つく子供たちが多すぎる今、それを祈りたいし、伝えたい、そう思います。
(The story of two daughters by KOKIA)
あなたには姉妹・兄弟はいらっしゃいますか。
そしてあなたのお母さん、お父さんはあなた達兄弟姉妹にどんなふうに接してきましたか?
兄弟や姉妹比較に今は悩んでいなくても、不安症や神経症で悩んでいる方々にはその記憶が強烈に残っている人が少なくありません。
兄弟や姉妹と比較されて今まで褒められた事が一度もない・・・
その逆でいつも比較の中で自分は褒められっぱなしだった・・・
いつも親は自分を見離していた・・・
いつも親がなんでもしてくれた・・・
そのどちらであっても、そうされる子供にしてみたら
「自分がない」状態、本当の自分がなんなのか分からなくなってしまいます。
「自分はどこから来てどこへ行くの?」
「何かひとつでいい、誰か教えて!」
こんな歌詞の唄が子供番組の主題歌になる時代は何を意味しているのでしょうか。
ひとつには親が自分の親からそうされたという経験のある場合が多くあります。無意識に自分がされたことと同じことを子供にしている場合です。
親は子供の頃、自分はどこから来てどこへ行くの?
愛されているのか、見離されているのか、わからなくなったはずです。
そうすると、自分が何者かわからなくなってしまいます。
自分がわからない状態で、母親や父親になったらどうなるでしょう。
無意識に子供が自分からいつか離れていくことに不安を感じるようになります。
自分がべったりすることへの恐怖もあれば、自分が子供をつきはなす恐怖もあります。どちらが本当の自分なのかわかりません。
自分が見捨てられているのではないかという子供の頃の不安と、子供が自分から離れていくのではないかという不安が、ここにきて統合できない状態になってしまいます。
その結果、子供の兄弟・姉妹比較、つまりまったく違う接し方をすることでしかその不安を埋めることができないようになってしまいます。
あるいは兄弟、姉妹比較にあらわれず、一人の子供に両面を交互にだしていくことで表出する場合もあります。自分の中に棲み付く不安が統合されないのですから、どちらで接したらいいかわからないのです。
それを断ち切ることができるとすれば・・・
どうしたらいいのか・・・
兄弟、姉妹というのは血縁からしたら一番近い存在。
それなのに心も体もまったく違う性質を持ち合わせて生まれてきます。
世界中誰ひとり同じ人はいないからです。
兄弟、姉妹であってもまったく違って当たり前なのです。
人はときに当たり前のことを、当たり前すぎて忘れてしまいがちです。
けれど当たり前すぎるそのことを、自分に、そして子供に伝えることがこれを断ち切るスタートラインになるように思います。
子供は親にとって無条件の愛の対象です。
愛し、愛されることになんの資格も条件も必要はありません。
ある姉妹喧嘩のたえない娘は自分たちの母親を空に例えました。
それは母親が一人は太陽、一人は月だと例えたからです。
兄弟、姉妹は生まれた時から違って当たり前。
どちらが優秀でどちらがそうでないかとか、
どうちが正しいとかどちらが間違っているとか、
そういう雑念はもともと何ひとつ無いんだということ・・・
この当たり前のことを子供に伝え続けてほしい。
あまりにも傷つく子供たちが多すぎる今、それを祈りたいし、伝えたい、そう思います。
(The story of two daughters by KOKIA)
歩くことの効果と本当の意味とは
http://1sad.seesaa.net/article/120351590.htmlに「散歩してみよう、歩いてみよう」という記事を書きましたが、今日はその中で10番(こんなふうに歩いてみようよ)までいった人へのメッセージです。
先ず、歩くという単純なリズム運動の中には、私達が思ってもみないいろいろな効果があることを知りましょう。
簡単に言われていることは「有酸素運動で肥満やメタボ解消」ということですが、もっと具体的に下にかかげてみます。
大きくは・・・
・運動不足解消
・生活習慣病の予防
・体脂肪の燃焼
・メタボ予防
・ダイエット効果
・リフレッシュ効果
そしてもっと具体的には・・・
・心臓や肺機能が高まる
・骨が丈夫になる
・筋力低下を予防する
・血行がよくなる
・持久力が高まる
・ストレスが解消する
・脳が活性化する
・腰痛や肩こりが解消する
などなど。
そして、メンタル面や脳の活性化についてもう少し補足すると・・・
不安や恐怖をわき起こす脳内神経伝達物質は「ノルアドレナリン」だという話を以前したと思います。そしてそのなだめ役が「セロトニン」だという話をしたと思います。
精神科や心療内科で処方される薬は、このセロトニンの分泌を促すものがほとんどです。
そしてこのセロトニンを薬物にたよらず、日常の中で外から促す方法は三つしかないという話を以前したと思います。それは・・・
1.単純リズム運動
2.外の光
3.食事療法
そこで・・・氣づかれましたでしょうか?
「歩くという単純なリズム運動」まず最初に1番をクリアしていますね。そして、当然歩けば外の光にあたります。だから同時に2番もクリアしてしまうんですね。
しごく当然のことですが、人は普通のことがなかなか出来ないものです。
心肺機能が高まる、血行がよくなる・・・
これも不安症や神経症の方に特徴的な過呼吸や心臓のドキドキ、血液の流れがよくなることによる自律神経の調和、循環器系の体の症状の緩和
につながっていきます。
だから、歩くとはとても素晴らしいことなんですね。
ちなみに「歩く」という字は「少し止まる」って書きます。
そう、歩くことは少し止まるということだとすれば、なにもあせる必要はないと思えてきませんか。
休み休み歩いても歩いていることになる・・・
心理的に自分は何もできないと感じていても、少し止まっているだけ、
そんなふうに感じられたらけして後退はしていないし、前をむいていることには変わりない・・・
だから少し止まることはとても大事なこと・・・
そんなふうに思えてきませんか。
さて、次にその歩き方についてちょっとしたコツを書いてみます。
単純リズム運動なのですから難しく考える必要はありません。
よく言われているのは次の三つ。
@かかとから着地する
Aつま先でけりあげるようにする
B目線は7〜8メートル先に置く
これだけです。
@とAは歩幅を少しづつ拡げることで自然にできるそうです。
で、これは血液のポンプ役をするのだそうです。
足は第二の心臓などとも呼ばれていますね。
かかとから着地をし、つま先でけりあげるようにするだけで足の筋肉が伸縮しますから、ぎゅっと血液をしぼりだすような感覚です。
それとこれは僕が歩いていて意識することの一つなのですが、自分の足の裏に根っこが生えていて、それが地面(大地)とつながっているような、地面に深く伸びているような感覚を持ちながら歩いてみてください。不思議な感覚、なにか大地の力を自分という人間にほんの少しでいいからわけてくれている、自然と自分はつながっている感覚を味わえるのです。
イメージって恐ろしいですよ。
脳は現実とイメージを区別できないって言いますでしょ。
本当にそれが現実的、リアルな体感として味わえるのです。
騙されたと思って意識してみて下さいね。
それから、僕が提案しているエクササイズOMEの中にもある五感イメージ法をこの歩いている間にもできますので紹介します。
たとえば、歩きながら何か聞こえてくるもの、一つに集中します。
森林や公園を歩いていると、鳥の声など聞こえてきますよね。
今聞こえている鳥はどこで鳴いているのかななどと空想します。あるいは何種類の鳥が鳴いているのかななどと空想します。あるいは何か伝えあっているのかななどと空想するのです。
あるいは、自分の肌の感触に意識をむけたりします。
歩いていると風や空気を肌に感じると思います。どんな感触ですか。風の強い日もほとんどない日でもそれを感じることができます。毎回その感触は違うのです。
そして、その風や空気はどんな匂いがしますか。
これも歩いている最中に違ったりしますし、毎回違ったりします。時間帯によっても違います。
また歩いていて何をあなたは目にしますか。
道端の草木、道行く人、遠くの景色などさまざまなはずです。その目にみえるものを一個づつ何かを感じながら歩いてみてください。
歩いているとふと突然なにかのアイディアが浮かぶことがあります。
それは日常の中でずっと解決できてないなにかにヒントを与えてくれることもあるし、まったく関係のない記憶や思い出に対する今までにない感じ方だったり考え方だったりします。単純リズム運動ほど、脳は活発に動くということは、東北大学の研究室でも発表されていますし、認知症治療にもたくさん応用されています。
こんなふうに考えてみると、というか知ってみると、というか実際に歩いて体感してみると、歩く効果というものは計り知れないですよね。
無理をする必要はどこにもありません。
一週間のうち一日か二日からでもはじめてみてもいいではないですか。
歩く時間は5分でも10分からでもいいではないですか。
歩くコースだっておうちの廻りからはじめてもいいではないですか。
でもね・・・
どんなに小さなことでも何かを感じられることができたら、きっとやみつきになりますよ。
歩かなきゃ、歩かなきゃではなくて、気がついたら歩いていた、そんな感覚でやってみてほしいなと思います。
先ず、歩くという単純なリズム運動の中には、私達が思ってもみないいろいろな効果があることを知りましょう。
簡単に言われていることは「有酸素運動で肥満やメタボ解消」ということですが、もっと具体的に下にかかげてみます。
大きくは・・・
・運動不足解消
・生活習慣病の予防
・体脂肪の燃焼
・メタボ予防
・ダイエット効果
・リフレッシュ効果
そしてもっと具体的には・・・
・心臓や肺機能が高まる
・骨が丈夫になる
・筋力低下を予防する
・血行がよくなる
・持久力が高まる
・ストレスが解消する
・脳が活性化する
・腰痛や肩こりが解消する
などなど。
そして、メンタル面や脳の活性化についてもう少し補足すると・・・
不安や恐怖をわき起こす脳内神経伝達物質は「ノルアドレナリン」だという話を以前したと思います。そしてそのなだめ役が「セロトニン」だという話をしたと思います。
精神科や心療内科で処方される薬は、このセロトニンの分泌を促すものがほとんどです。
そしてこのセロトニンを薬物にたよらず、日常の中で外から促す方法は三つしかないという話を以前したと思います。それは・・・
1.単純リズム運動
2.外の光
3.食事療法
そこで・・・氣づかれましたでしょうか?
「歩くという単純なリズム運動」まず最初に1番をクリアしていますね。そして、当然歩けば外の光にあたります。だから同時に2番もクリアしてしまうんですね。
しごく当然のことですが、人は普通のことがなかなか出来ないものです。
心肺機能が高まる、血行がよくなる・・・
これも不安症や神経症の方に特徴的な過呼吸や心臓のドキドキ、血液の流れがよくなることによる自律神経の調和、循環器系の体の症状の緩和
につながっていきます。
だから、歩くとはとても素晴らしいことなんですね。
ちなみに「歩く」という字は「少し止まる」って書きます。
そう、歩くことは少し止まるということだとすれば、なにもあせる必要はないと思えてきませんか。
休み休み歩いても歩いていることになる・・・
心理的に自分は何もできないと感じていても、少し止まっているだけ、
そんなふうに感じられたらけして後退はしていないし、前をむいていることには変わりない・・・
だから少し止まることはとても大事なこと・・・
そんなふうに思えてきませんか。
さて、次にその歩き方についてちょっとしたコツを書いてみます。
単純リズム運動なのですから難しく考える必要はありません。
よく言われているのは次の三つ。
@かかとから着地する
Aつま先でけりあげるようにする
B目線は7〜8メートル先に置く
これだけです。
@とAは歩幅を少しづつ拡げることで自然にできるそうです。
で、これは血液のポンプ役をするのだそうです。
足は第二の心臓などとも呼ばれていますね。
かかとから着地をし、つま先でけりあげるようにするだけで足の筋肉が伸縮しますから、ぎゅっと血液をしぼりだすような感覚です。
それとこれは僕が歩いていて意識することの一つなのですが、自分の足の裏に根っこが生えていて、それが地面(大地)とつながっているような、地面に深く伸びているような感覚を持ちながら歩いてみてください。不思議な感覚、なにか大地の力を自分という人間にほんの少しでいいからわけてくれている、自然と自分はつながっている感覚を味わえるのです。
イメージって恐ろしいですよ。
脳は現実とイメージを区別できないって言いますでしょ。
本当にそれが現実的、リアルな体感として味わえるのです。
騙されたと思って意識してみて下さいね。
それから、僕が提案しているエクササイズOMEの中にもある五感イメージ法をこの歩いている間にもできますので紹介します。
たとえば、歩きながら何か聞こえてくるもの、一つに集中します。
森林や公園を歩いていると、鳥の声など聞こえてきますよね。
今聞こえている鳥はどこで鳴いているのかななどと空想します。あるいは何種類の鳥が鳴いているのかななどと空想します。あるいは何か伝えあっているのかななどと空想するのです。
あるいは、自分の肌の感触に意識をむけたりします。
歩いていると風や空気を肌に感じると思います。どんな感触ですか。風の強い日もほとんどない日でもそれを感じることができます。毎回その感触は違うのです。
そして、その風や空気はどんな匂いがしますか。
これも歩いている最中に違ったりしますし、毎回違ったりします。時間帯によっても違います。
また歩いていて何をあなたは目にしますか。
道端の草木、道行く人、遠くの景色などさまざまなはずです。その目にみえるものを一個づつ何かを感じながら歩いてみてください。
歩いているとふと突然なにかのアイディアが浮かぶことがあります。
それは日常の中でずっと解決できてないなにかにヒントを与えてくれることもあるし、まったく関係のない記憶や思い出に対する今までにない感じ方だったり考え方だったりします。単純リズム運動ほど、脳は活発に動くということは、東北大学の研究室でも発表されていますし、認知症治療にもたくさん応用されています。
こんなふうに考えてみると、というか知ってみると、というか実際に歩いて体感してみると、歩く効果というものは計り知れないですよね。
無理をする必要はどこにもありません。
一週間のうち一日か二日からでもはじめてみてもいいではないですか。
歩く時間は5分でも10分からでもいいではないですか。
歩くコースだっておうちの廻りからはじめてもいいではないですか。
でもね・・・
どんなに小さなことでも何かを感じられることができたら、きっとやみつきになりますよ。
歩かなきゃ、歩かなきゃではなくて、気がついたら歩いていた、そんな感覚でやってみてほしいなと思います。
散歩してみよう、歩いてみよう
ウォーキングというと何か意識して健康の為にとはじめる人が多いのですが、不安や恐怖感を感じている人にとっては、外に出ることさえつらい、中には引きこもりの子供達もいて、なかなかそれをしようとは思わないものです。
だから、僕は言います。
1.自分の部屋の窓のそばに座ってみようよ。
2.自分の部屋のドアをあけてみようよ。
3.自分の部屋から出て家の中を歩いてみようよ。
4.玄関までいってみようよ。
5.玄関のドアをあけてみようよ。
6.玄関のドアをあけて外に出てみようよ。
7.2〜3分だけでいいから散歩してみようよ。
8.目的地を決めて歩いてみようよ。
9.いくつかコースをつくってみようよ。
10.それができたらこんなふうに歩いてみようよ。
で、もし10番までいけた人はこちらをご覧ください。
http://1sad.seesaa.net/article/120354463.html
1〜10まで最初から言うのではありません。
一個づつしか言いません。
一個ができたらオッケー、すごいね、よかったねと。
そして一個ができたら次の一個にチャレンジ、それでいいのです。
多くの場合、家族や支援者や学校の先生などは、1もできないのにいきなり8〜10のことをやらせようとします。もともと、やらせるのではないのです。本人がやろうとすることが大事なのです。
楽しさや心地よさ、自信などは他人に与えられるものではなくて、どんなに小さくても自分の経験や体験からしか生まれません。
自信を持て、気持ちを強くしろ、こんなことじゃ何もできないじゃないか、頑張ることが大事なんじゃないか、といくら言われたって自分で経験体験できないかぎり、そんなもの持てるわけがないのです。
だから、どんなに小さなことでも、できることから始めます。
1ができない人だっています。
そんな場合は、まずはベットから起き上がってみようからはじめていいのです。それで充分なのです。それであなたは素晴らしいのです。
だから、僕は言います。
1.自分の部屋の窓のそばに座ってみようよ。
2.自分の部屋のドアをあけてみようよ。
3.自分の部屋から出て家の中を歩いてみようよ。
4.玄関までいってみようよ。
5.玄関のドアをあけてみようよ。
6.玄関のドアをあけて外に出てみようよ。
7.2〜3分だけでいいから散歩してみようよ。
8.目的地を決めて歩いてみようよ。
9.いくつかコースをつくってみようよ。
10.それができたらこんなふうに歩いてみようよ。
で、もし10番までいけた人はこちらをご覧ください。
http://1sad.seesaa.net/article/120354463.html
1〜10まで最初から言うのではありません。
一個づつしか言いません。
一個ができたらオッケー、すごいね、よかったねと。
そして一個ができたら次の一個にチャレンジ、それでいいのです。
多くの場合、家族や支援者や学校の先生などは、1もできないのにいきなり8〜10のことをやらせようとします。もともと、やらせるのではないのです。本人がやろうとすることが大事なのです。
楽しさや心地よさ、自信などは他人に与えられるものではなくて、どんなに小さくても自分の経験や体験からしか生まれません。
自信を持て、気持ちを強くしろ、こんなことじゃ何もできないじゃないか、頑張ることが大事なんじゃないか、といくら言われたって自分で経験体験できないかぎり、そんなもの持てるわけがないのです。
だから、どんなに小さなことでも、できることから始めます。
1ができない人だっています。
そんな場合は、まずはベットから起き上がってみようからはじめていいのです。それで充分なのです。それであなたは素晴らしいのです。
あるがままに生きるとは?
あるクライエントさんの話です。
「あるがままに生きていい」と自分に許可を与えていいと先生は言いますが、では私のこのつらい症状をこのまま受け容れて一生それとつきあいなさいということなのですか。
辛いから先生にお話しているのに、それではなにも改善する方法を教えてくれてないことになりませんか。。。
・・・・・
・・・
・・
・
以前にも書いた記憶がありますが、神経症でお悩みの方の中には白か黒か、善か悪か、左か右か、どちらかでなければならないという思い込みの中にいらっしゃる方が多くいます。
先日、ある名言集をみていて
この「あるがまま」を言い得ていると感じるものがありました。
「上善は水の如し」(孟子)
(お恥ずかしい話ですが、僕は「上善水如」というお酒の名前だけは知っていましたが、その意味は知りませんでした。)
上善とは最上に生きるとか、最善に生きるという意味だそうです。
ということは「最善の生き方は水のようなものだ」ということですね。では水の特性は?これもどこかで聞いた覚えのあることですが・・・
水は高い所から低い所へ流れる、けして低い所から高い所へ流れない。つまり自然の摂理にしたがってけして逆らわずあるがままに流れる。
これは僕がよく言うけして症状と「闘うことではない」という部分に通じるように感じます。
また、水に関してはこんな有名な句もありますね。
「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(方丈記)
詳しくは解説できる知識はありませんが、河を流れる水は、いろんな障害物にあたっても形を変え、自然に逆らわずに絶えず流れている・・・そんな情景が浮かびます。
これに関してはつらい症状は障害から逃げ回ることではなく、自然に逆らわず形をかえて元の姿と同じではない状態、つまり逃げ回ることではないというイメージを感じます。
この二つから僕なりにあるがままに生きるとは、「低い所から高いところへ行こうとする(闘う)ことでもなく、障害物を避けて通ろうとする(逃げ回る)ことでもない」(闘争も逃走もしない)ということになるのではないかと思うのです。
世の中の成功者や、達人と言われる人たちの大きな共通点は「謙虚」であるということだと言われています。
誰かにまたは自分にへりくだったり、傲慢になったりすることではなく、自分をあるがままに許しながら、あるがまま熱くもえて生きている、そんな感じです。
そこには他人と自分を比較して一喜一憂するところもありません。誰かと競争して勝ち誇り、自分を素晴らしい人間だととらえるところもありません。
謙虚である人はいつも自分をとりまくすべての環境に感謝もしています。
順調に事が運んでいれば、順調にいっている自分の廻りすべての人や環境に感謝しながら生きています。
逆境にあれば、自分が傲慢にならないようにとのサイン、必要な出来事としてそれを素直に受け止めて自分を省みる姿、気づかせてくれてありがとうというあり方で生きています。
その経験や体験が、その人をさらに謙虚にさせるのでしょう。
その人は謙虚でありながら、廻りや環境に感謝しながら
自分の生き方になにか本当の自信があるような感じすら受けます。
本当の一流とか達人の世界は、水の如き「あるがまま」なのです。
これもある方がおっしゃっていたことです。
「本物の専門家とは、その道において誰よりも失敗を重ねた人」だと。
だからもしあなたが今、どんなに不安でもいろいろな症状に悩まされてもそれはけして意味のない出来事ではありません。
それを一生我慢して生きなさいということではないのです。
他人から与えられたこて先の対処法や改善策は本当は有効ではありません。
それでは「自分はすべて他人次第」と言っているのと同じことになります。
自分で自分をあるがままに肯定しながら、絶えず水の如く、自然に逆らわず形を変えて本当の幸せという大海へ流れている、もしかしたら流れているその状態が幸せなのかもしれません。
過去は流れている「今」の集積が過去になっています。
「い・ま」と言ったその瞬間にそれは過去になってしまいます。
また未来は流れている「今」の先に常に未来があります。
「い・ま」と言ったその瞬間にそれは未来をつくりだす源流なのです。
あるがままに「い・ま」を熱く生きてみませんか。
「あるがままに生きていい」と自分に許可を与えていいと先生は言いますが、では私のこのつらい症状をこのまま受け容れて一生それとつきあいなさいということなのですか。
辛いから先生にお話しているのに、それではなにも改善する方法を教えてくれてないことになりませんか。。。
・・・・・
・・・
・・
・
以前にも書いた記憶がありますが、神経症でお悩みの方の中には白か黒か、善か悪か、左か右か、どちらかでなければならないという思い込みの中にいらっしゃる方が多くいます。
先日、ある名言集をみていて
この「あるがまま」を言い得ていると感じるものがありました。
「上善は水の如し」(孟子)
(お恥ずかしい話ですが、僕は「上善水如」というお酒の名前だけは知っていましたが、その意味は知りませんでした。)
上善とは最上に生きるとか、最善に生きるという意味だそうです。
ということは「最善の生き方は水のようなものだ」ということですね。では水の特性は?これもどこかで聞いた覚えのあることですが・・・
水は高い所から低い所へ流れる、けして低い所から高い所へ流れない。つまり自然の摂理にしたがってけして逆らわずあるがままに流れる。
これは僕がよく言うけして症状と「闘うことではない」という部分に通じるように感じます。
また、水に関してはこんな有名な句もありますね。
「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(方丈記)
詳しくは解説できる知識はありませんが、河を流れる水は、いろんな障害物にあたっても形を変え、自然に逆らわずに絶えず流れている・・・そんな情景が浮かびます。
これに関してはつらい症状は障害から逃げ回ることではなく、自然に逆らわず形をかえて元の姿と同じではない状態、つまり逃げ回ることではないというイメージを感じます。
この二つから僕なりにあるがままに生きるとは、「低い所から高いところへ行こうとする(闘う)ことでもなく、障害物を避けて通ろうとする(逃げ回る)ことでもない」(闘争も逃走もしない)ということになるのではないかと思うのです。
世の中の成功者や、達人と言われる人たちの大きな共通点は「謙虚」であるということだと言われています。
誰かにまたは自分にへりくだったり、傲慢になったりすることではなく、自分をあるがままに許しながら、あるがまま熱くもえて生きている、そんな感じです。
そこには他人と自分を比較して一喜一憂するところもありません。誰かと競争して勝ち誇り、自分を素晴らしい人間だととらえるところもありません。
謙虚である人はいつも自分をとりまくすべての環境に感謝もしています。
順調に事が運んでいれば、順調にいっている自分の廻りすべての人や環境に感謝しながら生きています。
逆境にあれば、自分が傲慢にならないようにとのサイン、必要な出来事としてそれを素直に受け止めて自分を省みる姿、気づかせてくれてありがとうというあり方で生きています。
その経験や体験が、その人をさらに謙虚にさせるのでしょう。
その人は謙虚でありながら、廻りや環境に感謝しながら
自分の生き方になにか本当の自信があるような感じすら受けます。
本当の一流とか達人の世界は、水の如き「あるがまま」なのです。
これもある方がおっしゃっていたことです。
「本物の専門家とは、その道において誰よりも失敗を重ねた人」だと。
だからもしあなたが今、どんなに不安でもいろいろな症状に悩まされてもそれはけして意味のない出来事ではありません。
それを一生我慢して生きなさいということではないのです。
他人から与えられたこて先の対処法や改善策は本当は有効ではありません。
それでは「自分はすべて他人次第」と言っているのと同じことになります。
自分で自分をあるがままに肯定しながら、絶えず水の如く、自然に逆らわず形を変えて本当の幸せという大海へ流れている、もしかしたら流れているその状態が幸せなのかもしれません。
過去は流れている「今」の集積が過去になっています。
「い・ま」と言ったその瞬間にそれは過去になってしまいます。
また未来は流れている「今」の先に常に未来があります。
「い・ま」と言ったその瞬間にそれは未来をつくりだす源流なのです。
あるがままに「い・ま」を熱く生きてみませんか。
新型インフルエンザ マスク
大山です。
とくに宣伝するわけではありませんが、マスクを買えないっていう方が多くなってきましたので紹介しておきます。ご自身の責任でお求めになりたい方はご注文してください。
モバイルの方はこちら


とくに宣伝するわけではありませんが、マスクを買えないっていう方が多くなってきましたので紹介しておきます。ご自身の責任でお求めになりたい方はご注文してください。
¥12,600(税込) ■新型インフルエンザ対策用マスク、たっぷり50日分のセットですWHOは新型インフルエンザには今までのワクチンは… |
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タグ:新型インフルエンザ マスク 不安
posted by 大山 at 23:18
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| 対処の仕方
窓のそばに座ろう
一人で閉じこもりたい気持はわかります。
こんな私でもその経験があるからです。
夜に眠れず、朝方まで目がさめています。
眠くなって寝たかと思うのはたぶん朝方です。
ですが、目はまもなく覚めます。
そんな時は、何もしたくありません。
頭がボーっとしています。
布団から起き上がれず、外の光にあたる事もありません。
布団の中でボーっとしていると間もなくまた寝たり起きたりします。
気がつくと夕方です。
いやぁーな気分になります。
一人が嫌な自分なのに、一人でこんな日々を繰り返したら・・・
気が狂いそうになります。
そんなときは、がんばって布団から起き上がります。
外に出なくてもいいから、窓のそばにいってカーテンをあけます。
そんな簡単なことでも大変になるときがあるのです。
だからもしあなたがこれが出来たらとても素晴らしいのです。
こんな簡単なこと・・・ではないのです。
もし他の人があなたと同じ状態になったら、これさえも出来ないのです。
そしたら、今度は思い切って外に出てみよう。
今日でなくてもいい。
でも、窓のそばに座る・・・それだけでも気分が違ったはずです。
ある日、外に出てみたら陽射しがとてもまぶしく感じました。
とってもいい天気なのは分かります。
廻りの緑も目に入ります。
自然はなんて素敵なのに、自分の気持がはれない・・・
はじめはそうでした。
けれど、外に出ないともっと凹むことがわかりました。
外に出るだけなに・・・
普通の人はこんなささいな事、笑っちゃうんだろうなとも思いました。
でも、自分にはこれが精一杯です。
それでもいい、部屋に閉じこもっているよりはずっといい。
自分に許可をあたえてみました。
先ずは起きたら、窓のそばに座ってみよう。
それだけでもいいのです。
こんな私でもその経験があるからです。
夜に眠れず、朝方まで目がさめています。
眠くなって寝たかと思うのはたぶん朝方です。
ですが、目はまもなく覚めます。
そんな時は、何もしたくありません。
頭がボーっとしています。
布団から起き上がれず、外の光にあたる事もありません。
布団の中でボーっとしていると間もなくまた寝たり起きたりします。
気がつくと夕方です。
いやぁーな気分になります。
一人が嫌な自分なのに、一人でこんな日々を繰り返したら・・・
気が狂いそうになります。
そんなときは、がんばって布団から起き上がります。
外に出なくてもいいから、窓のそばにいってカーテンをあけます。
そんな簡単なことでも大変になるときがあるのです。
だからもしあなたがこれが出来たらとても素晴らしいのです。
こんな簡単なこと・・・ではないのです。
もし他の人があなたと同じ状態になったら、これさえも出来ないのです。
そしたら、今度は思い切って外に出てみよう。
今日でなくてもいい。
でも、窓のそばに座る・・・それだけでも気分が違ったはずです。
ある日、外に出てみたら陽射しがとてもまぶしく感じました。
とってもいい天気なのは分かります。
廻りの緑も目に入ります。
自然はなんて素敵なのに、自分の気持がはれない・・・
はじめはそうでした。
けれど、外に出ないともっと凹むことがわかりました。
外に出るだけなに・・・
普通の人はこんなささいな事、笑っちゃうんだろうなとも思いました。
でも、自分にはこれが精一杯です。
それでもいい、部屋に閉じこもっているよりはずっといい。
自分に許可をあたえてみました。
先ずは起きたら、窓のそばに座ってみよう。
それだけでもいいのです。
僕が涙した感動ムービー
人がもっとも傷つくこと・・・
それは無視(ネグレクト)
人がもっとも勇気づけられること・・・
それは存在を認めてあげること(自己重要感)
私もこの動画には泣きました。
(※野口嘉則氏作)
そして・・・
なんと素敵な歌でしょう。
心があつくなります。
明日必ず死ぬとしたら・・・
あなたはあなたの伝えたい人になんといいたいですか?
今それを伝える勇気をもつだけで・・・
あなたは後悔することがなくなります。
kokiaさんの歌のは、歌を超えた魂の世界を感じます。
それは無視(ネグレクト)
人がもっとも勇気づけられること・・・
それは存在を認めてあげること(自己重要感)
私もこの動画には泣きました。
(※野口嘉則氏作)
そして・・・
なんと素敵な歌でしょう。
心があつくなります。
明日必ず死ぬとしたら・・・
あなたはあなたの伝えたい人になんといいたいですか?
今それを伝える勇気をもつだけで・・・
あなたは後悔することがなくなります。
kokiaさんの歌のは、歌を超えた魂の世界を感じます。





